ほんやらなまず句会9月例会 1

国立には「ほんやらなまず句会」という名前の俳句の会がある。

 毎月1回、国立東の画廊喫茶「キャット・フィッシュ」に集まり、元・「MORE」「コスモポリタン」編集長の宗匠・二庵氏を中心に運営され、僕もその末席を汚している。「ほんやら」は中山ラビさんのほんやら洞のほんやら、「なまず」は「キャットフィシュ」のなまず。両方の常連が基本の句会だ。

 先日行われた9月例会の季題・兼題は「露」「秋の虫」「秋の燈」「ラジオ」 そこで出句した自作をご披露。
では、恒例によりまして拙作よりご案内。


     初秋や小さい私見ぃつけた

     
     初秋の旅や腕(かいな)に犬張子

     
     邯鄲の声を枕の帰郷かな

     
     空念仏唱えつ秋の蠅ながむ

     
     言い訳を拒む小径に秋蛍


介錯と干渉】
第一句  サトーハチローの「小さい秋」からの発想。ふとした時、自分と言う存在の小ささを感じる時がある。 そんな気持ちを句に込めた。本屋さんのPOPに「小さい私フェア」っていうのがあって、近づいてよく見たら「小さい秋フェア」だったというきっかけもある。老眼の始まりか。

第二句  これは日記にも書いたが、先日、同僚が出産のため休職に入った。郷里の津軽で出産するそうだ。故郷に帰る彼女の腕には、目には見えなくても安産と子育ての守り神「犬張子」が抱かれているのだなあ。

第三句  これも帰郷の歌。邯鄲(カンタン)は秋に切ない声で鳴く虫。その邯鄲の声を聞きながら帰郷するという風景だが、もう一つの意味も込めた。
 僕は故郷がない人間なのだが、友人から「帰郷はタイムスリップだ」と聞いたことがある。能に『邯鄲』と言う演目がある。貧乏で立身出世を望んでいた盧生という青年が、趙の都・邯鄲で仙人から、栄華が意のままになるという枕を借り、うたたねをしたところ、富貴をきわめた50余年の夢を見たが、覚めてみると炊き掛けていた粟がまだ煮えきらないほどの短い間であったという内容だ。元は中国の「枕中記」という小説。東京では色々あって時間も経ったけどそれも「邯鄲の夢」。故郷というものはいつも変わらぬ姿で迎えてくれるものなのだろうと。長いね、解説が。

第四句  「やれうつな 蠅が手をすり足をする」。一茶の名句の翻案かと思われそうだけど、僕の中での原点は、先代・三遊亭金馬の「小言念仏」だ。小言好きなご隠居が家族に小言を言いながら仏壇に向かって念仏を唱えて、そのうちに泥鰌鍋をつくりだす。熱湯に最初暴れていた泥鰌もやがて腹を出して浮いてくる。「ほぉら煮えやがった、ざまぁみろ。なんまいだーなんまいだー」というサゲ。「やれうつな 」は優しいまなざしで蠅をみているが、「空念仏唱えつ」の作者は、これからこの蠅を「打つ」タイプの人間なのだな。

第五句  なんとも救われない絶望的な気持ちに、いのちはかない秋の蛍が重なった。

朋輩たちの秀句・佳句は明日、一気にご紹介。