黒川鍾信『神楽坂ホン書き旅館』

勤務先がある神楽坂の地元本である。読まざぁなるまい、と言いつつ発売から一年以上経ってしまった。

 神楽坂にある旅館「和可菜」。この旅館は「ホン書き旅館」として知られている。「ホン書き旅館」とは、映画の「ホン」、つまり脚本を書くために脚本家が缶詰になるのに使われる旅館のことだ。
 
昭和20年代末にこの「和可菜」を始めたのが往年の大女優・木暮美千代とその妹で付き人をしていた和田敏子(おかみさん)。はじめは普通の旅館だったがオーナー姉妹の縁で映画関係者が集まるようになり、小説家も加わって・・・・。出入りしたのは、浦山桐郎野坂昭如石堂淑朗早坂暁山田洋次などなど。
 
よく神楽坂のイメージ写真に路地と日本家屋のある風景が使われるが、それらのほとんどがこの和可菜の界隈だ。

 説明が長くなった。その旅館とそれに関わる人々の50年を描いた「評伝」がこの本だ。じつに温かい視点で書かれていて読むものも温かい気持ちにさせられてしまう。

 そして人物が実にイキイキと描かれている。出色なのが和可菜名物の鬼軍曹か鬼舎監のような女中頭・カズさん。超個性派揃いの宿泊者たちの頭上に君臨し、そして愛され、母か姉のように慕われたこの人の一挙手一投足は読者を笑わせ、感心させ、ホロリとさせてくれる。

 この著者はおかみさんの甥に当たる。そういうのって、ともすれば素人くさい本になりそうなのだが、著者は英米文学者でプロの文章家だ。その辺は抜かりがない。

 唯一難を言えばディティールを書き込みすぎかなぁ、と読みながら思っていた。でもあとがきを読んだら、おかみさんおよび編集者にバッサバッサと刈り取られたとあった。それを読んでから、「ディティール過剰」も許せる気がしてきた。あれもこれもと盛り込みたくなる思い入れがなんとも好感が持てたからだ。遊びに行ったらあれもこれもとお土産を持たせてくれた親戚のおじさんのような気がしてきちゃうのだ。

 それと戦後日本映画史裏バージョンとしても楽しめる。高峰三枝子VS木暮実千代のライバル同士の確執(というほどドロドロしたものじゃないけど)なども非常に興味深い。

 著者はこの作品で 「日本エッセイスト・クラブ賞」を受賞している。

 「和可菜」は営業を大幅に縮小しながらも今もある。無責任に言ってしまうけど、神楽坂のシンボルとしてなんとか残って欲しいなと思う。

神楽坂ホン書き旅館

黒川鍾信『神楽坂ホン書き旅館』(NHK出版・1700円)