石田千『月と菓子パン』(晶文社)

パーティーの話ばっかりしていても始まらない。肝心の感想文を。

月と菓子パン  

とにかく読んでいて幸せになれる本だ。石田さんのエッセイは読む人の心をほっこりと温かく豊かにしてくれる。刺激的な事件などひとつも起きやしない。出てくるのは老人、幼児、商店街のおじさんおばさん、猫などなど・・・。

   30代の町暮らしの女性の日常の一齣の数々をサラリと、だけど温かな筆致で描いた好エッセイだ。観察は緻密かつ繊細でその視線は優しいが、文体に甘さはなく潔くキリリとしている。だから全然臭くなく、全体の印象はしなやかで伸びやかだ。

どこから読んでも、どこか懐かしい香りがする。僕が行ったこともない町のことが書かれているのになぜか懐かしい。それぞれ心の奥底に沈んでいる懐かしい風景を呼び起こす力を持っているのかもしれない。それでいて新しい。昼の酒のゆるゆるとした美味さ、川原の土手で飲むビールの爽やかさをここまでリアルに表現した女流を僕は知らない。

それと実用書としての魅力もある。行き会ったおじいさんおばあさん、おじさんおばさんから教えてもらった生活の知恵、暮らしの工夫、プラスαの一仕事が文中にちりばめられている。おもに料理の話題でだ(おばあさんがなにかしら自分の知っていることを教えてあげたくなる、このへんも石田さんの人徳だろう)。もちろん細かいレシピが載っているわけじゃない。名もない人たちが語り継いできた「もっと美味しくするため」の心構えみたいなものが石田さんの筆を通じて読者に提供されるのだ。

自然体で肩肘は張ってないんだけど、背筋はシャンと伸び、襟がピシッとしている、そんな印象を受けた。なんとなく向田邦子さんや青木玉さんを思い出す。「経済家」なんて言う懐かしい言葉が自然に出てくるかな。

最近、使い尽くされた常套句であまり使いたくないのだけど、「癒し」効果はかなり高いと思う。ここ数日疲れ気味だった僕もちょっと元気になれた。この本で癒されない人は、よほどの重症か、ハナから疲れてないかのどちらかだと思う。お医者に行くか、もうちょっと仕事に身を入れるかした方がいい。

山本容子さんの表紙版画、南伸坊さんの造本も美しく手触りがいい。かなりお勧めの一冊だ。

石田千『月と菓子パン』(晶文社刊・1890円)