先輩からの申請。兵隊を貸す


今朝は朝一番でPCを立ち上げて驚いた。


フェイスブックに友達申請が来ていたのだ。大学時代の先輩のO谷さんだった。


三十余年前、僕は大学に入ると同時に落語研究会に入った。理由は単純に、落語が好きだったから。


それが失敗だった。聴くのとやるのとでは大違い。僕は高校ではそれなりに面白い少年だったと思っていたのだが(性格に難があるのか友達はできなかったけど)、大学に入ったら、それこそ全国区から面白い少年少女が集まっていた。落語研究会での日々は「面白くない自分」と向き合う日々だった。特に欠点として僕はアドリブが利かない。


結局、半年ぐらいで退部した。それなりに慰留はされた。というのも僕の落語カセットテープのコレクションは当時にしてちょっとしたもので、先輩の誰よりも豊富に所有していたのはもちろんのこと、部のライブラリを数倍で凌駕していたので。


退部してからの数ヶ月は無聊をかこつ毎日だった。部活動中心の毎日から一転した空虚感は大きかったし、挫折したのだからそれなりに傷ついていた。


そんなときに「ブラブラしているんならウチに来いよ」と誘ってくれたの一学年上の歌舞伎研究会のO谷さんだった。歌舞伎は取り立てて好きだったわけではないが(マンガやプロレスやバイクの方が好きだった)、素人芝居をやるというようなサークルではないのがよかった。


芸事全般(芝居、音楽、絵、写真、工芸、文章等)、見たり聴いたりするのは大好きだけど、自分でやるのは大嫌いな僕にはむいていた。何もしなくてもいいかわりに何をやってもよかった。


ここでの数年間がその後の僕を作ったといってもいいだろう。今も仲良しな義太夫三味線奏者の鶴澤寛也師匠、歌舞伎俳優の「勘定奉行」こと中村京蔵丈、もう亡くなったけど仲人までしていただいた国文学者の松田修師との出会いも、言ってみればO谷さんのおかげだった。


O谷先輩は面倒見のいい兄貴肌でとても世話になった。一緒に師走の京都の南座の歌舞伎顔見世興行を見に行ったりもした。夜中に東京を出る大垣行きの夜行列車だった。


そうだ。クリスマスイブだった。イブの夜に男だけで歌舞伎を見に夜行列車に乗るなんてなんてかわいそうなチームなんだ。しかも横浜から乗り込んできたクリスマスパーティー帰りのカップルの女が突然嘔吐してモロに直撃されたりしたのだO谷先輩は。


寛大な先輩で、東京に帰った後僕が「Oさんはニベアで歯を磨いていた」とみんなに触れ回ったり、女性を連れていたら大きい声で「あ、O谷さん、宗旨替えですか」と呼ばわったり、無礼の数々は数え切れないのだけどみな笑って許してくれた。


前述したようにすごく面倒見のいい先輩で、僕を歌舞伎研究会に呼んでくれた上に、数年後には僕の卒業を見送ってくれたのだ(!)。


私生活は謎に満ちていた。財布が空っぽのこともあれば札束を持っていることもあった。卒業後数年たって僕があるトラブルに巻き込まれたときは「何人か兵隊貸そうか」と言ってくれた。


最後に会ったのはいつだったかな。初音家左橋さんの真打披露だった。平成7年か。


そのあたりで消息が途絶えた。3年前の中村京蔵丈の受賞祝いのときも一生懸命探したのだけど見つからなかった。


そして突然の今日のFB申請。


「居住地」欄はタイのチェンマイだった。



あまりにも久しぶり。メッセージには「早隠居だ」と書いてあったがそんなことはあるまい。「宗旨替え」してなければ多分、人身売買とか薬物取引とか銃器密売とかテロリストの育成指導とかしていると思う。



今も頼めば兵隊を貸してくれるのかもしれないし、徒手空拳で自営業をしていると借りたい場面も多々あるのだけど、いかんせん距離がありすぎる。残念。



僕にもう少し金銭的、体力的に余裕が出来たらぜひ遊びに行きたいと思う。今日みたいに寒い日は特にそう思う。それまではぜひ元気でいてください。2年3年程度の未来じゃないと思うので。



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そして日中。50過ぎてもあいかわらずアドリブの利かない僕は、明日のイベントのシナリオを書いてましたよ。





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