「リハビリ道楽」の日々について

今日は「なごり雪」と「氷雨」。フォークと演歌が同根であることが改めて証明された一日だった。


いやそんなことはないのだけど足元が悪いので終日室内作業。PCを叩きつかれてふと視線を上に上げると目に入ってくるのがこの額だ。



これは2010年の秋に私淑する作家の嵐山光三郎先生からいただいた手紙を額装したもの。曰く、


「十松弘樹氏の回復を祈願してここに念をこめて守護札を作りました。早く元気になってもとの快傑トマツに戻って下さい。ゴキカンをおまちしております。 嵐山光三郎


中央には富士を背に松を脇に黄色い背広を着た僕が立ち「十松ヒロキは負けない!」といっているイラストが描かれている。足元で猫が「そうだ」と言っている。



新しい読者様には説明が必要だろう。


2010年の9月。会社員だった僕は会社の帰りに脳梗塞で倒れた。国分寺駅から今も定期的に通う府中・恵仁会病院に搬送。約半年間休職して2011年4月に復職。1年後の2012年4月に退職し半年後の2012年9月にビブリオを開業している。



倒れてすぐにいただいたのが上の手紙だ。もともと「快傑」に程遠かったので「快傑トマツ」には戻らなかったが、この手紙にも励まされなんとか「キカン」はできた。


もちろん脳梗塞により小脳のそこそこの部分が壊死したためそこそこの障害を負った。今も杖がないと外出できない。でも最初は寝たきりだった。なんとか杖があればどこにでも行かれるようになったのはリハビリの効果だ。


「健康」という季刊誌があった。今、あるかどうかはわからない。書店売りはない医家向けの雑誌。入院中のブログか、連載を持っていた「書評のメルマガ」に書いたリハビリに関する軽口を読んだ編集者から連絡があり、一年間4回の連載をした。


「リハビリを楽しもう」という意味で「リハビリ道楽」と言うタイトルだった。まだ籍があった会社はアルバイト禁止だったので「野田一孝」という筆名を使った。別に当時の首相の名前にもじったわけじゃなくて、漱石の「坊っちゃん」の登場人物で一番好きな「のだいこ」へのリスペクトをこめて。


その「季刊健康」の掲載誌、今は手元に一冊もない。気前よくばら撒いてしまった。誰に上げたかも覚えていない。ただ、テキストは残っているので再掲載しよう。今となっては若書きを直したい部分もあるのだけど、僕には文書改竄の身代わりになってくれる官僚はいないのでそのまま掲載する。漢数字を数字に変えるくらいで。わかりにくいところは赤字で解説を入れます。またゲラで直した部分は反映されていない。


以下、野田一孝こと十松弘樹筆「リハビリ道楽」。とても長いのでお暇なときにごゆるりと。もちろん、何の役にも立ちませんのでお含みおきください。






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リハビリ道楽 野田一孝 名義 (アグレプランニング「季刊 健康」連載)



<1> 千鳥足  〜連載第一回〜  (2011夏号掲載)

 平成22(2010)年9月13日、脳梗塞に斃れた僕(当時49歳)は即座に入院。救急病院からリハビリ病院への転院を経て、翌23年1月31日に退院。自宅療養および自主リハビリの生活となった。現在、要介護2級(その後、要支援1に)、2種6級の障害者認定(これはかわらず)。この雑誌が出るころには仕事に復帰している「予定」である。


帰宅途中の遭難 



あのやたら暑かった夏をいまだ引きずった9月13日のこと。日中は普通に仕事をしていた。

 昼休みには自宅の近所にお住まいの作家・嵐山光三郎さんから電話がかかってきて落語会の打ち合わせ。地元で「嵐山亭」と称した落語会を主宰していて、旬日に迫った人気真打・立川志らく師匠を招いての落語会の当日の進行と配布プログラムの作成を任されていた。さらには相棒(先輩だけど)の画廊経営者・M氏(ギャラリーエソラの関マスオ氏。2015秋没)に電話して落語会の打ち合わせと、今年も作る嵐山さん、安西水丸さん(2014春没)、.南伸坊さんをフューチャーしての「俳画カレンダー」の進行スケジュールなどを確認した。


 そしていつもどおりに仕事をした僕は18時30分ごろ、「じゃ、お先に!」と退社した。そのまま半年以上の不在になるなんて夢にも思わずに。


 職場の最寄りの地下鉄東西線神楽坂駅前の百均で落語会の会場整理用のスズランテープ(ビニールヒモ)を買った僕は地下鉄の駅の階段を下り始めた。


 そのとき、異変が起こった。


 左足が妙に左に流れるのだ。そう、ちょうど花魁道中の「外八文字」のような形。こりゃいかん。ただ経験のない感覚ではない。三次会のカラオケまで行くとこんな感じになる。つまり泥酔時の千鳥足だ。それととも激しい眩量。


 これが近頃評判の「熱中症」かとは思ったものの、この状態で階段は下りられない。しばらくの問、階段に腰掛けて異変の収束を待った。


 ようやく収まって地下鉄に乗車。JRと直結して三鷹まで行ってくれる編成だ。幸いにも座れて一安心したもののまた眩量が襲ってきた。そして吐き気も。

 

三鷹でJR中央線に乗り換え。今度はそこそこの混雑で座れない。間断なく襲ってくる眩量と吐き気に音を上げた僕は自宅のある駅の二つ手前の駅「国分寺」で途中下車した。そしてホームから妻に電話して迎えを頼んだ。「熱中症みたい。迎えにきてカバン持ってくれない?タクシーで帰ろう」

 

自宅から妻が駆けつけるまでの問、自分を熱中症だと思っていた僕は、身体を冷やそうと自販機で缶入りの飲料を買い、額や頬さらには脇の下にあてがった。が、何の効果もない。吐き気はいよいよ耐え難くとうとうホームで嘔吐(幸い百均でもらったビニール袋があった)、と思ったが胃液しか出なかった。

 

二十分後、妻がやってきた。そして僕の顔を見るなり妻は真顔になって、「おとうさん、これは普通の状態じゃないよ。救急車にきてもらおう」


 数分後、サイレンが近づいてきて救急隊がきてくれた。車椅子に乗せられホームから階上に上がり有人改札を抜ける。「ああ、ちゃんとSuicaを通して出ないと明日の朝エラーになっちゃう」と思ったが、そんなワガママ言える状態ではないのであきらめた。


 そしてそのSuica、次に使うのは翌年の1月31日。退院の日のことである。でもそんなこと、そのときの僕には知る由もない。翌朝には使うつもりだったのである。


すわ、行旅病人及行旅死亡人
 

ここに不幸中の幸いがいくつかある。


 第一は、三鷹から乗り換えた中央線が混んでいて座れなかったこと。座っていたら着席と同時に意識を失い、「酔っ払って寝込んでいるオヤジ」として[高尾←→東京]間を終電まで往復し続けただろう。運が悪ければそのまま車庫に行って翌朝には「行旅病人及行旅死亡人取扱法」の適用事例となっていただろう。


 そして第二。とにかく僕はうちに帰りたかった。そしてすぐに寝たかった。寝れば翌朝には治る、と思った。だから妻にカバンを持ってもらって、ここからタクシーで帰るつもりだった。しかし妻は僕の様子を見て「救急車を呼ぼう」と判断した。それが幸運だった。タクシーで帰宅して寝ていたら、そのまま目覚めることはなかっただろう。


 そのことをもって多くの人に「奥さんの判断に助けられた。もう一生頭が上がらないね」と言われた。


 バカを言っちゃあいけない。


 こういうことがなくったって頭など上がるものか。だいたい世の中に妻に頭が上がる夫なんて実在するのか?


 さて、とにもかくにもこれで救急病院に搬送されて、五ヵ月近くに及ぶ入院生活が始まるわけだが、紙数が尽きた。


続きは次号。






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2 妄想  〜連載第二回〜  (2011秋号掲載)

 昨年(2010)9月13日。勤め帰りの僕(当時49歳)は、熱中症と思しき症状で(実際は脳梗塞だった)中央線某駅で昏倒、迎えに来た妻の機転で、救急車に乗せられたのだが…。


救急車内で一時間 


 そういうわけで救急車に乗せられたのだが、なかなか受け入れ先が決まらなかった。救急隊員さんはあちこちに無線連絡してくれているのだが、受け入れ先がない。着慣れないスーツを着てたくさんの企業を回った大学四年の秋を思い出した。


 なにしろ意識朦朧なのでどのくらいの時問だったかはわからないが、同乗した妻によると一時間近くかかったらしい。救急車はその間、サイレンを鳴らして街中を走り続けて……いたわけではなく、駅前に停車していた。


 もちろんそのときは「長えなあ」とは思ったものの気にする余裕などなくて、断続的な吐き気と後頭部の激しい痛みに耐えていた。「熱中症とはこんなにつらいものか」などと思いながら。しつこいようだが熱中症ではなく脳梗塞だったのだが。


 ようやく受け入れを了承してくれたのは「関戸橋リバーサイド病院(仮名)(恵仁会病院)」。聞いたことのない病院だが所番地でだいたい見当がつく。土地勘がなく地名も病院名もよくわからなかった妻には、僕がその漢字と最寄りの駅を教えたらしい。意識朦朧としつつも「教え癖」は衰えない。



 もう少し早く受け入れ先が見つかれば、もう少し処置が早ければ、もう少し後遺症も軽かったのでは……と思わないこともない。しかしもうそれは考えまい。みんな一生懸命やってくれたことは間違いない。

 

 走りだしたらものの数分で病院に着いた。もつれる舌で「ここは是政橋ですね。十年前ここで鮭の稚魚の放流をしたことがありますがこんなかたちでまた来るとは。とんだ“カムバック・サーモン”です」と軽口。救急隊の人はハイハイと聞いてくれたが、ここは関戸橋。是政橋はひとつ下流の橋である。やはりはりだいぶ混乱していたらしい。こうして「関戸橋リバーサイド病院」に運び込まれた僕はストレッチャーに乗り換えて緊急処置室へと運ばれた。



とんだ「タ霧伊左衛門」 

 検温とともにまず着替えさせられた。ズボンのないブルーのパジャマ。人間ドックや精密検査のときに着させられるやつ。しかもこれが不織布、つーか紙だよこれ。

「紙衣(かみこ)かよ。とんだ『タ霧伊左衛門』(歌舞伎の「廓文章」で、放蕩が過ぎた若旦那の伊左衛門は零落して紙衣姿で愛人の花魁・夕霧を訪ねる、というお芝居)だぜ」と、もつれる舌で一人ごちたが誰も聞いてやしない。


 簡易な検査の後、妻は帰され僕だけが泊まることとなった。点滴がつけられ、胸には「心電計」なる小さな機械が貼り付けられた。急に心臓が止まったりしても別室のモニターでわかる。便利。


 吐き気があって水は喉を通らない。点滴で水分を入れているので夜中に何度かトイレに行ったのだが、不思議なことにというか当たり前のことに、トイレに行くたびに体が重くなっていく。最初は歩いて行かれたものが次は看護師さんに車椅子に乗せてもらうようになり、当初は立って用を足せたものが立てなくなる。そして左半身にだんだんに痺れが広がってくる。


 朝にはほぼ半身不随の寝たきり状態になっていた。朝一番でストレッチャーに乗せられMRI室へ。検査を終え出てきたところで病院に来た妻と出くわした。ピースサインをして細い声で「ダイジョーブですよー」と言ってみたのだが、これはもちろん暴漢に襲われた後の病院での故・伊丹十三監督の物マネ。ちなみに妻はこの朝のことを思い出すといまだに情けなくて涙が出てくるそうである。そうかそんなに似てたか。


 診断の結果は脳梗塞。部位は小脳。「これは入院ですね」との医師の宣告と共に、看護師さんに大きな裁ちバサミで件の紙パジャマをジョキジョキと切られ布の病衣に着替えさせられた。

 

 そのハサミの音は、まるで娑婆との縁(えにし)を断ち切る音のように聞こえたのだった。



脳梗塞の日々の始まり

 「意識はあったのか」とよく問われるが、あったようななかったような、である。幸い言語へのダメージは軽度であったので妻や看護師さんに軽ロを叩いていたかと思うと(しゃべることで不安に抗していた)、その直後にはこんこんと長時間眠り続けていたり。そして入院当初は40度近い発熱に苦しんでいた。後で聞くとこのときも梗塞は続いていたらしい。

 

 そんなわけで意識はとぎれたりつながったり。それでもやはり心配なのは仕事のこと。


「会社に電話をしなくちゃ」。


 それが半壊の頭にまず浮かんだことだった。妻に頼んで上司に電話で状況を説明してもらった。ただちに僕の不在に対応した体制が部内で組まれたそうだ。

 

 続いて脳内の霧の一瞬の晴れ間には、後輩に直接電話をして細かいことの伝達。よかった、携帯のダイヤルボタン、自分でプッシュできた。


 この間の数時間で、言語へのダメージは軽微であるとの感触はあったがやはり心配で、電話を終えるや妻に「俺、ちゃんと喋ってた?わけわかんないこと言ってなかった?」と聞いた。



 僕自身はスーダラ社員だが、上司も後輩も非常に有能かつ情に厚く、この年下の人たちに救われて安心して闘病生活が送れた。これは実に幸運だったと今も思っている。


 続いては“殿様”に電話。旧知の長宗我部友親さん(名前の通り土佐の長宗我部家の現当主)の出版記念イベントが翌9月15日なのだ。これは当然、無理。予約キャンセルしなくちゃいけない。


 でも11月に予定している台湾旅行は大丈夫だろうから連絡は不要だな、と思っていた。まさかその出発日には中華航空どころかまだ車椅子に乗っているなんて、さらにはこのまま4ヵ月以上入院生活を送るなんて、想像もしていなかった。



“構想”と“妄想”の問に  〜三代目長作構想〜

 先にも書いた通り、意識は「微妙」な状態。もちろんそれは今になって思えば、のこと。当時は、「良かった。認知は大丈夫だ。かえって前よりサエてるくらい」と思っていた。「三代目長作構想」に取りつかれていたのもこのときだ。


 仕事についてはほぼ絶望していた。立てないし左半身は動かないし、現職に復することは不可能であろうと。でも自分の口と家族は食べさせなくてはならない。そこで閃いたのが「三代目長作構想」だ。


 僕の祖父、長作は銭湯を経営していた。リヤカーで街中を回り廃材を集め風呂を沸かしていた。それに倣おうというのである。あいにく銭湯はとうに廃業している。そこで木を燃やしてチーズとかベーコンとかの燻製を作ろうというのである。


 幸い僕には知人に木彫をやる人が多く、著名な仏師もいる(関頑亭先生のこと)。その仏像を彫るときに出る木屑で燻製を作ればご利益がありそうである。なにすべてが仏像の木屑である必要はない。ほんの一片でも入っていればいいのだ。喫茶店の「ブルーマウンテンブレンド」と同じ。豆一粒でも入っていればいいのだ。


 身体はほとんど動かさない(動かせない)が、頭の中はぐるぐると回転していた。迷走といってもいいかもしれない。


 そしてそのブランド名は「三代目長作」。うん、これはあたるぞ。サラリーマンよりもうかるかもしれない。税金が心配。


 回らぬ舌で妻にその構想、いや妄想をまくし立てた。妻は「三代目、って二代目はどうするのよ?お義父さんは襲名してないわよ」と言ったが、それは良いのだ。成田屋を見なさい。今の市川團十郎(十二代目)(2013春没)の祖父は頑なに十代目襲名を固辞し続けた。そこで死後、十代目を追贈された。


 幸い僕の父は後期高齢者にして健在だが、この際追贈しようじゃないか。相続税法で言うところの「生前贈与」だ。


 などと上機嫌で構想を語っていたのだが、歩けないからリヤカーは曳けない。左半身麻痺しているから斧も持てない。そんな肝心なことをすっかり忘れていた。


 妻は笑顔でうなずきながら聞いてくれたが、かなり絶望的な気持ちになっていた、と最近聞かされた。 


 妄想といえば隣のベッドのご老人のネームプレートを見て、同姓の中学時代の一級上の先輩であるような妄想に取りつかれ、せき込みを聞くたびに心配で身を切られるようだった。



 こうして四ヵ月を超える入院生活が始まった。


 脳梗塞という病気は、意識が戻った(急性期を脱した)瞬間からリハビリが始まるといわれる。いよいよ僕の「リハビリ道楽」生活が始まるわけだが残念、紙数が尽きた。以下、次号。


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3 初年兵  〜連載第三回〜  (2011冬号掲載)

 昨年(2010年)9月、帰宅途中の某駅で昏倒した僕〔当時49歳)は、救急車で府中市の「関戸橋リパーサイド病院(仮名)(恵仁会病院)」に緊急搬送された。そして……。


歩けない 


こうして「関戸橋リパーサイド病院(仮名)(恵仁会病院)」での生活が始まった。病名は脳梗塞。症状としては主に運動障害。立てることは立てるが歩けない。車椅子での生活となった。


 左手は辛うじて感覚はあるものの強いしびれがある。ちょうどNHKの朝ドラで「ゲゲゲの女房」をやっていた時期だったので、「ニューギニア野戦病院に置いてきたよう」と称していた(水木しげるは激戦のニューギニアで左腕を失っている)。


 言語はほぼノー・ダメージ。嚥下(えんげ)は若干の障害。ものが飲み込みにくいが困るほどではない。


 最も悩まされたのが強いめまい。突然、来るのだ。右下方向に引っ張り込まれるような、奈落の底に落ちるような感覚。とんでもなく怖い。それが間断なく発生する。起きている時、寝ている時。食事をしている時、人と話をしている時。妻に押してもらって病院内を車椅子で散歩していて、ゆっくり流れる風景に誘発されてめまいが起きたこともあった。


 そして複視(ふくし)。ものが二重に見えるのだ。「複視だから福祉のお世話になってます」とうそぶいていたが、本や新聞を読めないストレスでいっぱいだった。


 あと、しゃっくり。しゃっくりが止まらないのだ。よくしゃっくりがOO回続くと死ぬ、なんていうが、その回数は軽く超えた。だから皆さん、しゃっくりでは死にません、安心してください。


ゆでガエル 


 思わぬ障害もあった。入院当初、高熱に悩まされたことは前号で書いた通り。そこで看護師さんがアイスノンを入れてくれた。そして位置がずれたので使える方の右手で直した。あれ?全然冷たくないそ。「すみません、これ冷たくないです」と取り替えてもらったが、またしても冷たくない。大体がアイスノンなんてものは凍っているからアイスノンなのである。

 
 つまり冷たくないアイスノンなんてものはあり得ない。


 右半身が温感を失ってしまったのだ。冷たさもわからないし熱さも認識しない。これはエラいことだ。左半身はしびれていて運動不随意で、右半身は温感がない。つまりお風呂で湯加減が見られないということになる。前号でも書いたが昔わが家は銭湯だった。ああ、廃業していてくれて良かったと思った。


 よくビジネスマン向けの研修などで「ゆでガエル」というのがある。蛙は熱湯に入れられると熱さにびっくりして熱湯から飛び出すけど、水からゆっくりと加熱されると馬鹿だから気付かぬままにゆでられてしまう。ビジネスマンも変化に対応しないと……というようなご教訓。しかし僕は、熱湯でもゆでガエルになってしまう身の上になってしまったのだな。


 でも思わぬ「モテキ」が期待できるかもしれないぞ。「強情灸(ごうじょうきゅう)」という古典落語がある。人気の鍼灸(しんきゅう)所の「峯の灸(みねのきゅう)」に行って熱いお灸を我慢して、見物のご婦人にモテようともくろむ妄想男子の悲喜劇を描いたものだ。今の僕ならどんな大きなお灸でも耐えられるので、どれだけモテるか。「峯の灸」の場所を探してくれと妻に命じて顰蹙を買ったりした。


 ただ温泉に浸かって「あー極楽極楽」という楽しみは失った。だって右半身は温かくないんだもん。


 食事に関しては、入院して5日間は飲まず食わずだった。脳障害のリスクに誤嚥下がある。食道に入るべきが気管に入ってしまう事故。高齢者の死因の上位に数えられる。


 その間、栄養は点滴で摂った。不思議と腹も減らんし、喉も渇かない。二日目から三日聞は鼻から栄養を入れた。鼻から食道にチューブを通し、流動食を落とす。バニラ味。なぜ鼻から入れたのに味がわかるかというとゲップ。ゲップで流動食がパ二ラ味だったことが知れるのだ。


 月が替わるころ、つまり入院から約二週間で、件の鼻の栄養チューブに続いてすべての点滴を外した。晴れて「コードレス」の男、「アンプラグド」の男となった。これで夜中に毀れたマリオネットのようなポーズで目覚めることもなくなった。


 リハビリは入院後数日で始まった。理学療法(運動系)と作業療法(主に手の機能回復)と言語療法(嚥下と認知も含む)の三部門。療法士さんは三人とも若い美人。「複視で美人が3×2で6人に見えてうれしい」などと強がっていたが、リハビリ中も間断なく襲ってくるめまいには暗澹たる思いだった。


黄泉の国から 


 それで「本職」の話である。いや本職じゃないや、ブログのこと(一応、本連載のプロフールにブロガーとなっているもんね)。七年近く、毎日更新してきたブログも倒れた前日からストップしたきりだった。そこで事情を知る友人が「野田さんは急の海外出張で」とコメントを入れてくれていた。


 意識が安定し始めた9月28日、2週間休んだブログを再開した。PCは手元にないので携帯電話で更新。複視で携帯の文字がよく見えないので妻に文字を最大にしてもらった。内容は病院でのあれこれ。なにごともエッジが利いていなくちゃと「日本一役に立たない闘病記−−梗塞日記」と銘打った。我ながらセンスが悪い。


 件の「野田さんは急の海外出張」のコメントを受けて「黄泉(よみ)の国へ出張中でした」と書いて顰蹙を買ったりもした。


月月病院 

そうこうしているうちに転院の日が近づいてきた。脳梗塞という病気は急性期を脱した瞬間からリハビリが始まるというが、本格的なリハビリを始めるべき時が来たのだ。


 妻がケアマネージャーさんと相談して決めてきた病院は、同じ市内の「月月火水木金金病院(仮名。以下、「月月病院」)(本当は366リハビリ病院)。リハビリ専門の病院だ。勝手に仮名を付けておいてなんだが、アタマに「海軍」って付たくなるような名前だ。転院の日のブログにも次のように書いている。


「これまでの人生、ほとんどがんばったことなどないけど、今度こそがんばりますよ。最年少の初年兵だしね」

 

 10月7日転院。


 車椅子ごと乗られる福祉タクシーで移動。妙に視点が高くて、大井川の川渡しで「上つ方(うえつがた)」が乗る輿(こし)のような感じ。


 月月病院(366リハビリ病院)はリハビリ専門で、評判のいい病院。入院のみで通院はない。指導は厳しいががんばればがんばっただけ効果が出る、という。なんだか学習塾か予備校の広告のようであるが。


 手続きの後、担当スタッフを紹介された。みんな若い女性。コスチュームは白衣でなく、紺または白のポロにページュのチノと若々しい。肩ロに職種(医師、看護師、療法士、等)と姓名が刺繍されている。


 リハビリは土日は休み、なんてことはなく毎日ある。マンツー・マンで日に二、三時間。大晦日も元日もあるという。「月月火水木金金病院(本当は366リハビリ病院)」の名は伊達ではない。「休まず毎日やる」、これが機能回復の大前提なのだ。


 病室は4人部屋で僕だけ飛び抜けて若い。みんな僕の親くらいの年齢で、当然ながらリハビリのために他の病院から転院してきている。


 入院患者は男女合わせて60人くらい。外科と内科が半々ぐらい。僕のような脳疾患もいれば、交通事故等での骨折の人もいる。それらの関係も面白かった。みな和やかに過ごしながらも、脳疾患の人は「外科の人は気楽でいいや」と思い、外科の人は「あの方はおつむの方だからねえ」となかなか微妙。


 とはいえみんな親切だった。親切を通り越して「大きなお世話」の人もいて、それが日常の起居や面会者への詮索にまで及ぶと、さすがに大いに心をかき乱され、キレる寸前になることもあった。でも「あの人うるさいよねえ」という陰口に接して、「ああ、俺だけじゃないんだな」と少し気楽になった。陰口というのもまんざら悪いことばかりでもない。



満場の病人諸君 


 そんなこんなで病院生活は和気藹々(わきあいあい)でなかなか快適だった。


 室内着やパジャマは原則、病院からの支給(もちろん有料だけど。僕は「官給品」と称していた)。それどころかパンツや靴下も。まったくの手ぶらで入院できるのだ。


 室内着とパジャマはさすがに数サイズがあるけれど、パンツや靴下はフリーサイズ。つまり176センチ80キロの僕も140センチのおばあちゃんも共通。不都合がないから不思議だ。人間のサイズの違いなんて宇宙から見れば誤差の範囲でしかない。いや何も宇宙から見なくてもよいが。


 パンツの男女共有について気にされる向きも多かろう。でも心配はご無用。月月病院では男性も立位での小用が禁止されている(転ぶと危ないのでね)。大小ともに座位なのでパンツの前開きは必要ないのだ。


 つまりパジャマからパンツに至るまでお揃いで共用である。そりゃ和気謁々にもなろうものである。


 先代の鈴々舎馬風(れいれいしゃばふう)は刑務所の慰問で開ロ一番、「満場の悪人諸君!」と言ってツカみ、退く時には「じゃ、みんな仲良くやんなよ。せっかく揃いの着物着てるンだからさ」と言ったという。そんなことを思い出した。


さながら僕たちは「満場の病人諸君!」だ。


丸刈リ 

 それから僕が月月病院に転院して一番最初にしたこと、それは散髪。とはいえ、外の床屋さんに行くことはできないので、巡回の美容師さんに来てもらった。病床にあってもいつも以上のお酒落心で気を明るくもつ効能は既に医学的な証明がなされている。きれいに白髪を染めてセットしてもらったこ婦人方はみな一様に表情が明るくなっていた。


 どのようにしますか、と問われて迷わず「丸刈りで」。僕は病院のウエアが個人的にイケてないので、入院当初は作務衣で通していた。だから「仕掛人・藤枝梅安」みたいになった。


 池波正太郎原作の第一話にも「坊主頭に作務衣姿ののろのろした動きの中年の大男」という表現があったような気がする(初演俳優が緒形拳でも渡辺謙でもなく小林桂樹だったことも想像してくれたまえ)。まんざら見当外れでもないはず。


 そうしたら「いいねえ」「さっぱりしてるねえ」「俺も昔は……」と年配の男性患者に大人気。次の巡回日には坊主ブームが吹き荒れ、坊主頭のおじいちゃんが大増殖したのはなかなか壮観だった。古今亭志ん生なら「冬瓜(とうがん)舟が着いたよう(大山詣り)」というところである。


 こうしてリハビリ三昧のブートキャンプな日々が始まったわけだが、残念、ここで紙数が尽きた。以下次号。



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4 死にものぐるい

〜連載第4回(最終回)〜   (2012春号掲載)

 昨年(2010年)9月、帰宅途中の某駅で昏倒した僕〔当時49歳)は、救急車で府中市の「関戸橋リバーサイド病院(仮名)(恵仁会病院)」に緊急搬送された。そして急性期を脱した10月初旬、リハビリ専門病院である「月月火水木金金病院(仮名)(366病院)」に転院。「リハビリ道楽」の日々が始まった。


目指すは「吉野家

「月月病院(仮名)」での日々が始まった。僕の担当スタッフがみんな若い女性だったのは前号でも書いたとおり。患者ごとの「チーム制」を取っていて、理学療法士作業療法士言語聴覚士、看護師、介護福祉士、そして黒一点の医師が1チーム、つまり「チーム野田」を組み、たびたび会議を開いては僕のリハビリについて遺漏や無駄の無いよう連絡を取り合っていた(もちろん他の患者についても同様だ)。


ここでのリハビリはすべて「退院後の実践」にむけてのものだった。これが年配の患者さんだったら「自宅での安全で快適な暮らし」、あえて言えば「幸福な余生」が目標となるのだが、入院時点で40代と若い僕の目標は「社会復帰」の四文字だったのだ。


入院早々の車椅子生活のころ、理学療法士さんに訊かれた。


「野田さんのリハビリの目標はなんですか?」。


それまでの49年の人生でとりたてて目標なんて定めた経験のなかった僕はうつむくしかなかった。そしてようやく顔を上げてうつろに見たリハビリ室の窓の外には、都道越しに2軒の「吉野家」があった(実際には1軒。複視で二重に見えていた)。そこで咄嗟に「吉野家に(歩いて)行って牛丼を食うこと」と答えたら、瞬殺で


「目標小っちゃ!!」


と却下された。


結果、「吉野家に歩いて行って牛丼を食う」、つまり「倒れる前の普通の生活に戻す」と「善意の拡大解釈」をした修正目標が定められ、本格的なリハビリが始まった。


階段は怖い


リハビリをしながらヒアリングされたのが日ごろの生活。通勤経路、職場環境、自宅環境や起居、などなど。通勤経路に乗換えがあり階段も多いこと、職場が東京に数多い「坂の名所」(神楽坂)にあることを確認するとそれに即したリハビリが組まれた。


ようやく杖を使っての歩行が始まるとほぼ同時に「階段特訓」の開始。病院内の階段を最初は手すりと杖を併用して、次は手すりだけ、さらには杖だけ。最後には杖も手すりも使わずに。もちろん上りもあれば下りもある。たった半フロア分12段の階段の踊り場から下を見下ろすと断崖絶壁のようでとんでもなく怖い。それを訴えると理学療法士さんはニッコリと笑い、


「そう、昔から階段(怪談)は怖いものなんです」。


オヤジギャグのお株を奪われた瞬間だった。


病院の駐車場のスロープを使っては坂道の特訓。ほんのわずかの傾斜でこんなにもバランスをとるのが困難になるなんて思いもしなかった。


1メートルおきに障害物(自立させた四点杖)を置いてそれを避けて歩くS字歩行。これはもちろん都会の雑踏を擦り抜ける訓練。


「今日はマタギの練習でーす」


作業療法士さんが言うから熊でも撃つのかと思ったら「跨(また)ぎ」。杖を2本、30センチ間隔で床に寝せてそれを跨ぐ練習。これは駅のホームから電車に乗り込む練習だ。


いきなり体操用のマットを床に敷かれたこともある。これは僕の自宅の寝室(ってほどのことはないが)がベッドではなく和室に布団であることを踏まえての練習だ。床に寝た状態から、いかに安全に立ち上がるか。


杖無しでの歩行が試せるようになって始まったのが「江戸からくり茶運び人形」。僕の職場の昼食がカフェテリア形式の社食であることに対応したリハビリだ。トレーの上になみなみと水を入れた丼と茶碗を載せ、それを持って院内を一周するのだ。もちろん一滴もこぼさないのが目標だ。


これにはスタッフ総出で応援してくれた。このリハビリをしているとナースステーションから受付からリネン室から声がかかるのだ。


音羽屋!」


いやそうじゃなくて、「野田さん、昼ごはん美味しかった?」「野田さん、昨日の“笑点”でね…」。つまり雑音があっても惑わされずに安全に作業をするための実践なのだ。この訓練は妻との外出が許可されてからは、ドトールで、ガストのドリンクバーで自主トレを重ねた。


ジャイアント馬場に倣う

と今は気楽に書いているが、現実には脳卒中による障害のリハビリはハードなものだ。それは林家三平(先代)の評伝などで十分に知っているつもりだったが、自分で経験してみると想像以上。威厳ある立派な紳士が男泣きするのに出くわしたのも一再ではない。


ただ僕自身に関して言うと、弱音を吐いたりネガティブになったりすることはなく、つねにポジティブ(前向き)かつアグレッシブ(攻撃的)な姿勢をキープできたと思っている。


その秘訣の一つは「本の効能」と言ってしまっていいと思う。


 まずは友人が差し入れてくれた『がきデカ』の復刻版。ご存知、昭和後期の傑作ギャグマンガだ。入院当初は想定外の重篤な症状に落ち込み気味な日々だったが、これを読んだら「あふりか象が好きっ!!」と叫べば世の中の悩みのおそらく8割くらいは雲散霧消することを思い出した。失恋も、受験や就職難も、「あふりか象が好きっ!!」と「んがっ!!」で乗り切って来たじゃあないか。


 それと同時に昭和後期のアイドル・西城秀樹氏の脳梗塞闘病記『あきらめない』にも大いに励まされた。


 闘病、リハビリ生活を強く支えてくれた本。実はそれは入院中に読んだ本ばかりではない。むしろ力になったのは幼少年期に読んだ本、すなわち人格形成期に読んだ本たちだった。だって病気になってからじゃ体力はないし目は霞むしそうそう読めるものではないのだ。


 僕にとってのそれは、『巨人の星』、『空手バカ一代』、『ジャイアント台風』等、少年期、台詞を暗記するほど読み込んだ梶原一騎劇画の数々だった。


「死にものぐるい」という言葉を覚えたのは『ジャイアント台風』だった。修行時代、バーベルを揚げられずにいた馬場に対し、師匠の力道山は馬場とバーベルを手錠で繋ぎトレーニング室に凶暴なスズメバチを放った。逃れるにはバーベルを持ち上げて室外にエスケープするしかない。その時、馬場さんが発した言葉が「死にものぐるい」だったのだ。


 また僕は入院中、髪を金髪に染めヒゲを伸ばしていたのだが、これは「気分転換」以上に、清澄山に山籠りした大山倍達が俗世間への未練を断ち切るために片眉を剃り落とした故事に倣ったものである。これはちょっとコジツケかな。


 そして梶原作品で忘れてはならないのが、近年は篤志家としてもお馴染みの『タイガーマスク』。「虎だ。お前は虎になるのだ」。いつしか僕は「リハビリの虎」を標榜するようになった。


そうしたらいつしか虎違い。『タイガーマスク』の虎ではなく、『山月記』(中島敦)の虎に近づいてしまった。目標を希求するあまりに山中で人食い虎になってしまった李徴(りちょう)のように、だんだん狷介(けんかい)な性格になってきたのだ。「人を食ったやつだ」とは子どものころから言われてきたが。


幸い僕は手遅れになる前に『がきデカ』やヒデキを持って来てくれる友達があったので人食い虎にならずにすんだ。


 とにもかくにもそれらの本の助けで、「リハビリの虎」として「死にものぐるい」の努力を重ね、周囲も驚く回復ぶりとなった(と自負している)。



明治の文豪に倣って


 蛇足を承知で続けよう。
 

 広義の闘病記の最高峰と言えば、なんと言っても正岡子規の『病牀六尺』『仰臥漫録』だろう。脊椎カリエスを病んでの根岸の里のわび住まい。背骨の膿に貼りついたガーゼを妹の律に換えてもらう苦痛に上げる悲鳴が鶯谷の駅にまで響いたというのは有名なエピソードである。


不遜ながら僕も子規に倣い、ハードと聞く脳梗塞のリハビリを京王線中河原駅まで響くような泣き声を上げてもがんばりぬこうと誓った。根岸の子規宅は盟友・陸羯南(くがかつなん)が提供したものだ。この家から子規晩年の偉業の数々が生まれた。子規には羯南がいた。僕には『がきデカ』やヒデキを差し入れてくれる友がいる。


 続いては自らの病臥を、倒れた場所の地名から「国分寺大患」と称した。もちろん夏目漱石の「修善寺大患」を意識してである。漱石の作風を大きく変えたという「修善寺大患」。僕も「国分寺大患」を機に芸風を変えよう。もっと重厚に(無理)、もっと深遠に(絶対無理)。


 さらには中江兆民の『一年有半』。余命一年半を宣告された兆民が自らの死に行くさまを描いた作品だ。僕も「一年有半」。でも逆に一年半くらいかけてゆっくりじっくり治そうと。


 そんな決意を随筆家・坂崎重盛氏にお便りしたら、折り返し「明治の文豪たちに自らをなぞらえるその図々しさが健在なら、“一月有半”は無理にしろ早々の快復が期待できるでしょう」との激励のファクシミリをいただいた。



俳句、短歌、そして都々逸


 先に書いたように僕の場合、リハビリは主に運動障害、特に歩行に関して行った。言語に関しては、入院中は「自主トレ」をしていた。旧知の俳人・土肥あき子さんの勧めで闘病句を詠んだのをきっかけに、12月中旬より「一日一句」を始め、退院後も継続して一年以上が経ち、このほど四百句を越えた。


 退院は1月末(2011)だった。外では杖を使うものの、家の中ならなんとか杖無しで過ごせる状態になっていた。3ヵ月の自宅療養(とは言え引きこもっていたわけではない。退院翌日から自宅近くのスポーツジムに入会し日参した)を経て、4月末に部分的に職場復帰。半年かけて少しずつ勤務時間を伸ばして晩秋にはフルタイム勤務となった。


この本が出るころには職場復帰一周年を迎える。いまだ仕事的には給料泥棒の域を出ないと自覚しているが、周囲の協力もあって、焦らず日々「成長」を続けていると思う。


休職中に6級の障害者認定を受けたのを皮切りに、古物商免許、防火管理者、防災管理者、JPIC読書アドバイザー等の資格を次々に取得した(あ、全部無試験だ。それに障害者手帳は資格じゃないし)。


倒れてからほぼ一年半が経つ。つまり「一年有半」。前々号で書いた「仏師が仏像を彫った木屑を使った燻製屋の起業」構想はさすがにあきらめたものの、妙に前向きで高揚した気分は続いている。いろいろと挑戦したいこともあって(この時すでに退職→開業は決めていた)、これから先僕の人生がどう転がっていくはわからない。ただリハビリは一生終わらない。ポジティブかつアグレッシブに「リハビリ道楽」を続けていこうと思っている。


一日一句の「闘病俳句」に続いて「闘病短歌」「闘病都々逸」もものにした。それらのうち退院の感慨を詠んだものをご披露して、全4回、一年間に亘った連載の結びとさせていただこう。<闘病俳句。退院の朝に詠めり>


検温のナース見上げて春を待つ<闘病短歌。「退院はゴールではない。スタートだ」との言説に応えて>


退院は ゴールならずと 誰(た)が言うた やりとげし後の 冬の朝焼け<闘病都々逸。金髪・ひげの言い訳>


意地の黒髪 情(なさけ)の茶髪 ひげと逢瀬は のびるもの




( ―― 了 ―― )







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