亡師の一周忌

高尾の東京霊園に行ってきた。亡師の一周忌である。

国文学者・松田修。それが僕の恩師だ。亡くなったのは去年の同じ日。新聞の死亡欄を見て身体が固まってしまってしまったの昨日のことのように覚えている。

もちろんお通夜にも告別式にも四十九日にも伺った。が、この日記には書かなかった。書けなかった。

どんな学業を残した人かは、亡くなる半年前に完結した全集『松田修著作集』(全8巻・右文書院)の紹介サイトを見ていただくのが一番早いだろう。中世、近世の異端文学の研究では傑出した存在だった。

文学部教授を、経済学部で専攻は農政という僕が恩師とあおぐのもおかしな話だが、サークル(歌舞伎研究会)の顧問就任をお願いに行ったのがそもそものご縁の始まりだ。

学生時代にはご自宅にも頻繁に出入りして書生の真似事のようなことをやっていた。

主たる業務は単行本未収録の雑誌寄稿のリストアップだった。方法は任せると言われたので京大式カードに整理した。または雑誌の対談企画の下準備で国会図書館国立劇場資料室にこもったりや都内の書店などを駆け回ったりした。当時の僕はバイク乗りだったのでこういうとき強かった。このとき整理した文献や対談の多くは先に挙げた著作集に収録されている。

故・寺山修司平岡正明、馬場あき子各氏等からの電話を取り次いだりするのもミーハーな僕には凄く嬉しいことだった。

一緒に小田切秀雄氏宅や唐十郎さんや常盤新平先生の仕事場に伺ったこともあった。入院見舞いのお礼参りで僕が車を運転して一日かけて数ヶ所をまわった。柳家三亀松の都々逸漫談のテープを車内で流しながら、実に愉快だった。

某出版社のカンヅメで首都圏の某温泉にこもったはいいが過労と風邪でダウンしてしまい、「あずさ」に乗って迎えに行き、調子に乗って皇太子殿下(現・天皇陛下)が泊まった部屋に泊めてもらったりした。

卒業して数年後に所帯を持つ際には仲人をしていただいた。

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僕がご自宅に入り浸っている頃は物静かな高校生で、今は大手IT企業のエンジニアである息子さんが新妻を伴い立派に喪主を務めておられた。また往時、活発でまるで小鹿のような女子高生で今はこの春に出産を控えた若奥さんであるお嬢さんがダンディなスポーツマンのご主人とともにサポートされていた。

導師は通夜、告別式、四十九日と同様に、松田先生の親友で「叫ぶ詩人」として知られる福島泰樹師。下谷法昌寺のご住職だ。高尾山麓の広大な丘陵地に広がる霊園に福島さんの荘重な読経が静かに響き渡り、亡き師に思いを馳せた。

「智敬院文藝日修居士」。福島師がつけられた恩師の戒名だ。

僕の数年後輩に当たる教え子さんたちも数人来られていた。この人たちは僕のような「なんちゃって弟子」ではなくて、ちゃんと国文学を勉強した人たちだ。

この人たちと、もしかしたら「ミッションM (仮称)」が生まれるかもしれない。素人の僕にできることなら少しでも協力したいと思う。