中島さんと太田の謎

またしても群馬県太田市の話である。しつこいのは百も承知二百も合点だが今日で終る。お許しを。

  
  太田市といえば富士重工企業城下町として知られている。富士重工の前身はといえば「中島飛行機」だ。

  中島飛行機とは先の大戦までの戦闘機の多くを製造した飛行機メーカーだ。ご当地出身で元・海軍軍人だった中島知久平(1884〜1949)が裸一貫、間借りの蚕小屋で創業し、研究に研究を重ね多くの戦闘機を作った。その功もあって中央政界にも乗り出し鉄道大臣、軍需大臣まで登りつめた立志伝中の人。太田一の有名人だ。

  敗戦後もその技術は富士重工、つまり「スバル」に引き継がれている。

  
  太田の駅の近くに「中島記念図書館」というのがあることを太田市のホームページで知った。なんでも中に「中島記念室」というのがあって知久平の遺品が飾られているという。そこに行ってみることにした。

  なぜ、中島知久平に興味を持ったかというと理由は二つある。
 
  一つは、地縁だ。

  僕が中央線で毎日通過する武蔵境駅から「西武多摩川線」というローカル線が出ている。この路線の沿線には富士重工の事業所がある。これは戦時中は中島飛行機の工場だった。大戦末期には大きな空襲があり多くの少年工が亡くなっている。その生き残りの人たちが、国立市内のギャラリーでしばしば中島飛行機の飛行機の図面の展覧会を開いていた。それでなんとなく中島飛行機には関心があったのだ。

  もう一つは本だ。
  野中久子著「私は捨て子だった」という本がある。1991年の本。奇書と言っていいだろう。この著者は昭和7年生まれ。戦前にはよくあった乳児売買で売られ買われ生みの親を知らないという境遇だ。詳しい内容説明は省くが、とにかくこの著者は自分が中島知久平の御落胤と思っているのだ。状況証拠めいたものはないというわけでもないけど、根拠はあまり強いとは思えないのだが・・・・。
  まあ、それなりに面白い本でもあったので、この本の印象とともに中島知久平も気になる存在だった。


  そういうわけで「中島記念図書館」に行ってみた。子ども専用の図書館で、黒いコートで角刈り頭の巨漢の来訪はかなり奇異だったようだが、館長さんらしき人が普段はカギのかかっている「中島記念室」に案内してくれた。

  15畳ほどの室内には議員時代の大礼服や書簡や愛用の硯の他、議員在職当時の資料や写真、肖像画などがガラスケースに入れられて結構、無造作に飾られていた。

  どうぞご自由にごらんください、なにかあったらインターフォンで呼んでくださいと言い残し、館長さんらしき人はいなくなってしまった。僕が悪心をおこしたら、とか考えないのだろうかとこちらが心配してしまった。

  書棚の上には初期の飛行機の木製のプロペラがヒョイってな感じで置かれている。これって結構お宝だと思うのだけど・・・。ちょっとした地震でもあったら落っこちそうな感じだ。


  書棚を見てびっくり、先に挙げた「私は捨て子だった」が5冊も入っていた。

  謎である。この本は自分は知久平の妾腹の子でしかも捨てられたと主張している人の本である。さっきも言ったようにその根拠は微妙だ。そういう本を知久平を記念する、顕彰する場所に(寄贈されたのかも知れないが)5冊も置くというセンスがわからない。謎である。ことの真偽はともかくとしても、知久平および関係者にとって愉快な話ではないだろう。

  この本の発行元は草思社。ベストセラーを連発する目利きの出版社がかくのごとき不思議な本を出したわけがわからない。謎である。ちなみにこの著者は後にも先にもこれ以外に本を出した形跡がない。どういう経緯で出版されたのだろうか。

  表紙イラストがペーター佐藤である。このような地味な本にペーターがイラストを、ましてや著者の肖像画を寄せている、この理由がわからない。


  わからないまま謎は謎のまま、空っ風の中、太田駅にむかった。


  多分・・・・多分みんなおおらかなんだろう。僕のように些細なことには拘泥しないのだろう。


  うん、つまり鷹揚なのだろう。鷹揚とは、鷹が空を飛揚するさまのように何者にも恐れず悠然としていることをいう(広辞苑)。

  そう、空の王者・鷹が青空を行くように、知久平の飛行機が茜空を往くように、みんなどこか泰然としているのだなあ。

  群馬県太田市。またゆっくり訪れてみたい町だ。