うちの両親は、父の退職後はいわば歌舞伎三昧で、毎月、歌舞伎座や国立劇場で歌舞伎を楽しんでいる。ちょっと前まで歌舞伎座に行くたびによくお会いするご夫婦があった。うちの両親よりもちょっとだけ若いシルバーカップルだ。
同じく国立市にお住まいの方で、奥さんの方と母が、国立市内のサークル活動でご一緒していて顔見知りだったそうだ。
歌舞伎座で初めて会った時、先方の奥さんが旦那さんに、
「こちら、サークルでご一緒している蕃茄さんご夫妻」
と紹介したら、旦那さんに、
「お宅に身体の大きい息子さんがいらっしゃいませんか?」
と聞かれたという。
僕の事である。
その旦那さんというのが、本日のタイトルに挙げた本の著者、豊田健次さんだ。豊田さんと僕は、ともに所謂「くにたち山口組」の残党同士というお付き合いだ。
豊田さんはすでに定年退職されているが、筋金入りの文芸編集者だ。文藝春秋で、「オール讀物」編集長や取締役文芸総局長などを歴任された。ある時期の文藝春秋の本の奥付けの「発行者」は豊田さんの名前だ。
退職後は講演活動をされたり、上に書いたように歌舞伎を見たり、俳句を詠んだり(「再会のコハゼの歪み春の泥」の名句がある) 、マスオさんや僕と東3〜4丁目近辺で飲んだくれたりしていたが、そんなキャリアの人を世間(特に出版業界)が放ってはおかない。
まさしく「満を持して」という感じで出版されたのがこの本だ。
豊田さんは、文芸編集者として三十年以上も芥川・直木賞に携わってきた(編集者として所謂「下読み」、長じては選考会の司会)。この本は、そんな豊田さんが綴る作家たちの素顔と受賞までの物語だ。
圧巻は野呂邦暢氏との物語だ。
野呂氏は昭和48年に『草のつるぎ』で芥川賞を受賞した人。野呂氏をデビューからずっと育てた(豊田さんはそういう表現は使わないが)編集者が豊田さんだ。
何しろEメールはもちろん、まだファックスもコピーもない時代。そして地方に住む作家とは電話すらままならなかった時代(野呂氏は九州在住)。すべて原稿のやり取りは郵送。コミュニケーションは手紙だ。豊田さんの手許には野呂氏からの百二十通にものぼる手紙が残っている。その手紙を軸に物語は進む(豊田さんからの手紙は残っていない)。
血を絞るようにして書いた作品がなかなか評価されない焦り、先行していくライバル達への羨望・・・・・。
それでも兄のように信頼する豊田さんの励ましで、希望を失わずに自らを鼓舞して創作に励んだことが野呂氏の手紙の文面から見て取れる。そして苦難の果てに掴んだ栄光。昭和48 年『草のつるぎ』で芥川賞受賞。
もう、30年も前の事なのに「おめでとう、おめでとう」と野呂氏の手を握って祝福したくなる。てもそれはもうかなわない。芥川賞受賞の7年後の昭和55年、野呂氏は42年の短い生涯の幕を閉じた。心筋梗塞であった。
野呂氏と豊田さんは単なる仕事のパートナーでなく、言い古された表現だがまさに二人三脚だ。さらに言うならラリー・ドライバーとナビゲーター、あしたのジョーと丹下段平、高橋Qちゃんと小出監督・・・。
文芸編集者というのはこうやって作家を育てるのだな、というのがよくわかった。これはなかなかできない事だと思う。大変な仕事だ。時代の違い、だけでもないだろう。
豊田さんに電話をして、そう感想を述べたら、
「いやぁ、ぼくも働き盛りだったからネ」
と照れくさそうに笑っておられた。
後半は直木賞。山口瞳、向田邦子両氏の話となる。こちらもなかなか面白い。
白眉は選考会の話だ。選考委員の一人である瞳先生はを向田さんに受賞させたいと思っているが、他の選考委員の中には疑義を呈する人もいる。その状況からどういう経緯で向田さんの受賞に至ったかを、「オール讀物」編集長としてその時の選考会の司会者を務めた豊田さんが克明に描写しているのだ。
僕らはあの記者会見をテレビで見るだけだが、その舞台裏を垣間見れるのもこの本の楽しさの一つだ。
でも、瞳先生、向田さんに関してはまだまだこの本に書かれてないネタがありそうだ。特に瞳先生とは昭和39年以来のご近所付き合いだ。数冊分のエピソードがある事は間違いない。というか、あることを僕は知っている。ぜひ、次回作にも期待したいところだ。