続続「FM国立」があった

 ドラゴンあきらと僕と浅沼は4時過ぎまで次の客を待った。でも誰も来なかったので3人でマクドナルドに行った。

  よく、マクドナルドのことを東京では「マック」と略すけど関西では「マクド」と略す、と言う揶揄半分の話がある。

  それ、違いますからね。いや、半分は合ってるけど半分は違います。

  当時の国立で「マック」などという奴はいなかったな。みんな「マクド」と略していた。だってマクドナルドをCMのとおり「マック」って呼ぶなんて、コカコーラをコークと呼ぶみたいで恥ずかしいじゃないすか。

  閑話休題マクドナルドで何を話しあったかはよく覚えていない。わかったことはドラゴンあきらが我が家から程近いマンションに住んでいること、市内にあるT高校の2年生であることだった。

  気を良くしたあきらは、数日後には早朝の野球グラウンドでリスナー会(今で言うオフ会ですな)を開いた。今度は僕たちのほか高校生が5人くらい集まった。

  その頃から僕たちの手紙が放送で読まれるようになった。

  僕は「ふらんす小噺」を数多く送った。つまりは艶笑コントだ。当時流行った映画「エアポート75」をもじった「エロポート75」とか、「伊豆の踊り子」をもじった「麗豆の踊り子(レズのおどりこ)」とかだ(いやな中学生だな)。あきらも面白がって大笑いで読んでくれた。

  放送は毎晩行われたので、ネタ作りも結構大変だった。

  天才肌・浅沼のロック論も豊富な知識に裏打ちされて、なかなか面白いものだった。これにはあきらも感心し、唸っていた。

  ウケるとさらにウケたくて黙っていられない。僕たちはクラス中にこの放送のことを喧伝した。退屈している奴らの噂は光の速さで伝播する。またたくうちに学校中に広がった。

  そのうちに「この手紙あきらに渡して」と学校で手紙を渡されることが増えてきた。その手紙は持ち帰ってあきらの家のポストに投函した。

  1人が手紙を読まれると、他の連中も読まれたくてせっせと手紙を書くようになった。休み時間が終わって教室に戻ると僕の机の上に手紙の山が出来るようになった。女の子の手紙も増えてきた。憧れてた大原さんに「これ、あきらさんに渡して」と手紙を託されたときはちょっと複雑な気持ちだった。

  
  そんなわけで、いつしか僕は「マネージャー」と呼ばれるようになった。僕も気に入ってその名前をペンネームとして名乗るようになった。

  もちろん放送にも出演した。出演はしたものの、アドリブが苦手な僕の登場はリスナーに不評で、一回きりの登場だったが。

  スタジオ、すなわちあきらの部屋に行ってみたら、送信機が広辞苑を半分に薄くしたくらいのコンパクトなものだったのに驚いた。ガワはクッキーの缶だった。電気マニアの同級生の手作りだそうだ。
   

  高校生のリスナーも増えてきて、高校生だけのリスナー会も行われたようだ。会場は金文堂の地下にあった「しもん」や旭通りにあったジャズ喫茶「喇叭屋」等。中学生の僕は行けなかった。

  もちろん中学生対象のリスナー会も開かれた。会場はマクドの2階。

  この時はずいぶんたくさん集まった。一中の生徒だけでも20人以上。半分以上が女の子だった。偶然を装ってその場にいて遠くからこっちをチラチラと見ていた連中を加えると30人近かったろうと思う。また、ラジオでのあきらの呼びかけに応じて来たものの、一中生の集団に圧倒されて名乗りでなかった人もいたらしい。

  あきらも今回は気合が入っていた。黄色いスゥィングトップに当時流行っていたミラーグラスをかけて現れた。スリムな長身だからよく似合った。

  
  もう、スターである。特に女の子にはモテモテだった。

  それはそうだ。カッコイイし、同級生の男の子よりずっと大人っぽいし、名門進学校・T高校の生徒だ。

  「もう、ピーちゃん(自分のこと)恋しちゃったみたい!!」

  と身をよじっているコもいた。

  
  思えば、あきらも、そしてマネージャーことこの僕もこのころが絶頂だった。


《続きはまた明日(多分、最終回)・・・》