もっと「駅馬車」のこと
「ぼくも大好き『駅馬車』」
と、BBS「蕃茄山房」に、「いしかわ」氏が書いてくれた。同意してくれたのが「いしかわ」氏なのは嬉しい。この夏には話題作「寺山偏陸」公開を控えている気鋭の映画監督である。
いしかわ氏のコメントを引用させてもらうと、
「あの作品の輝きは一向に薄れません。ネイティブアメリカンの描写に偏見があるのは気にしないことです」
そう、まさしく今日はその話をしようとしていた。
たしかに「駅馬車」の中のアパッチ(アメリカ先住民)の描かれ方は現在の感覚からいうとひどい。まるでケダモノのような残酷な悪者として描かれている(そのために米国では大っぴらに上映できないらしい)。
もちろん、だからといってそのために映画としての価値が損なわれるものではない。 でも傷つく人は必ずいる、と言われればそうかもしれないし・・・。うーむ難しいなあ。
70年前だものね。現代の視点から、高みの物言いをするのはナンセンスなのかもしれない。ある意味では、誰も「時代」からは自由にはなれないと言うことなのかもしれない。たとえどんな賢人であっても。
あの夏目漱石も「満韓ところどころ」という随筆の中で、満洲の大連港に着いたときの印象として、
「河岸の上には人が沢山並んでいる。けれども其の大部分は支那のクーリーで、一人見ても汚らしいが、二人寄ると猶見苦しい。こう沢山かたまると更に不体裁である。(後略)」
と書いている(原文では更に続く)。
その時代には当たり前の感覚の描写だったのだろう、今読むととんでもないけど。でもこのエッセイ自体は若さに満ちたすばらしいものだ(というふうに聞いた)。
書かれた時代を鑑みつつその本質を味わい、そして否定すべきところは否定する、といったところなのかな。当たり前と言えば当たり前のことなんだけど・・・。