高幡不動の思い出


で、高幡不動の話は続くのである。


今日は高幡不動の思い出を。高幡不動の近くの高校に通っていたガールフレンドのMちゃんとの甘酸っぱい思い出は、35年経ってもまだ甘酸っぱいので、いずれまたもう少し色褪せたら。


今、高幡不動と言うとこの風景である。



一昨日の日記に揚げた写真。


そして松盛堂さんの高幡饅頭のパッケージはこれ。




つまり高幡不動というとこの五重塔なのである。いまやシンボル。だがその歴史は案外新しく、昭和55年。まだ30年くらいなのである。まだ30年というべきかもう30年というべきか。出来た当初はキンキラキンで派手すぎて中国のお寺か那覇の再建首里城のようだったが、今はいいくすみ具合で実に荘重な搭になった。鈍く光る突端の宝輪 (九輪、相輪)がありがたい。


この五重塔落慶した頃、僕と祖母とで来た。というのが今日のお話だ。



今までに何度も書いたけど、僕と祖母とは最後まで折り合いが悪かった。ともにアグレッシブな性格だからぶつからないわけがなかった。旅行、歌舞伎見物と言う共通の趣味はあったものの、お互いに「レベルが違う(自分の方が高い)」と思っていて、当然口にも出してそのように言っていたから、和やかに旅を語る歌舞伎を語るシーンなどありようがなかった。


そんなわけで一緒に外出することなどついぞなかった。それが何のきっかけか一緒に高幡不動尊に行ったのだ。昭和55年晩秋。僕は19歳だった。


おそらく高幡不動尊五重塔が出来て参拝に行った人の話を聞きつつも当時はモノレールなどなく交通の便が悪くあきらめていたところに、僕が免許を取ったのがきっかけだったのではないかと思う。


昭和55年晩秋。僕は19歳だった。助手席に祖母を乗せて高幡不動へ行った。車はコロナの1500DXだった。今も持っている黒の革ジャンパーにジーンズだったはずだ。


出来立ての五重塔は豪華絢爛のキンキラキンだった。それでも祖母は「キレイだねぇ、ありがたいねぇ」としきりに感心していた。


一昨日も書いた起伏に富んだ境内を祖母は杖をついてゆっくりと歩いた。石段や橋では僕が手を引いた。


行き会ったお年寄りたちが僕たちを見て「いいわねぇ、うらやましいわねぇ」と囁いていた。祖母は人にうらやましがられるのが大好きな人だったので得意げに鼻をピクピクさせ、いまでいう「ドヤ顔」になった。性格が似ている僕も、人にうらやましがられるのが大好きだったので、悪ノリして石段で立ち止まってしまった余所のお年寄りの手を引いてあげたりした。傍目には立派な優しいいい孫である。


ちょうど昼時にかかった。そこで普段いけないような門前の老舗の鰻屋に・・・なんてことがあるわけはなくて、屋台のヤキソバをビールケースにベニヤを渡したベンチに二人並んで食べた。もう食が細くなっていた祖母はほとんど残して僕が食べた。



五重塔を見たとき「キレイだねぇ、ありがたいねぇ」と感心していた祖母だったが、家に帰って母には「キンキラキンであまりありがたくなかったよ」とこぼしていたらしい。祖母なりに僕に気を使っていたようだ。


半年も経たないころ祖母は泉下の人となったので、これが僕との最後の外出となった。いや、二人で出かけるのは多分このときが初めてだった。つまりこれが最初で最後だったのだ。


そのとき祖母がついていた杖が、今僕が愛用する「菊一文字」だ。


そして今、僕はしみじみ思う。





ばあちゃん、長すぎたろう。


僕と祖母、リアルに身長差40センチある。


<今日の一句>


梅雨空に 宝輪(ほうりん)鈍く 光りをり


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