9月1日のフォークロア 〜女中頭さんありがとう〜
何度か書いた話だが毎年書く…。
その頃、18歳のおとよちゃんは、東京のお金持ちのお屋敷で住み込みの女中をしていました。
夏の間は鎌倉の別荘で過ごすのが主家の通例で、おとよちゃんもついてきていました。
夏も終わりかけていたその日も、まだ別荘に残る主家の人がいたので、おとよちゃんも別荘に残っていました。
その日の朝のことです。近くの海岸に「心中者」が打ち上げられました。
この世で添えない男女が来世を誓って、お互いの身体と身体を結びつけて海に身を投じたその遺骸が海岸に流れ着いたのです。警察と消防団による処理作業を、おとよちゃんは同僚と見物に行きました。
古来より、我が国において「心中」は常に大衆の耳目を集めるものです。古くは「曽根崎心中」「心中天網島」「鳥辺山心中」。昭和に入って「坂田山心中」、戦後になってからも「天城山心中」…。
おとよちゃんと同僚は「すごいね」などと言いながら別荘に帰りました。
庭で放し飼いの鶏の世話などしながら、別荘に常駐の爺やさんから
「この辺の海岸には大きなものは打ち上がんねえはずなんだが、潮の流れが変わったかなぁ」
なんて話を聞いている時「それ」がきたといいます。
地鳴りとともにドカンと揺れたらもう立っていられません、咄嗟に近くにあった井戸のふちに必死でしがみつきました。
揺れはおさまりません。
母屋の柱に掴まった女中頭さんが、こちらに向かって大きな声で何か叫んでいるのはわかるのだけれど聞こえません。
おとよちゃんはなおも必死で井戸のふちにしがみついていました。
突然、声が聞こえました。
「おとよちゃ〜〜ん、そこに掴まっちゃ危ないよ--!!」
女中頭の声でした。
ふと我に返ると、高さ三尺(約90センチ)あった井戸のふちは、地震で地中に沈み半分以下の高さになっていた。
おとよちゃんはあわてて手を離して井戸から離れました。あやうく頭から井戸に落ちるところだったのです。
「ああ、命拾いした。女中頭さんありがとう」
などと言っているところに、地震後の津波が海岸からだいぶ離れた別荘にもやってきました。そして、庭でこの天変に恐慌していた鶏たちを根こそぎさらっていきました。
鎌倉での被害は井戸のふちと鶏くらいでしたが、東京の屋敷の被害は甚大で、しばらくは主家ともども逗子で過ごすことになりました。
故郷の茨城で、東京にいるおとよちゃんのことを心配した人がいました。兄の茂三さんだ。
取るものも取りあえず茨城から満員の汽車に乗って上京し、東京のお屋敷を探しました。
街は壊滅しています。不案内な東京で妹、おとよちゃんの奉公先を必死で探しましたがわかりません。
ようやく尋ねあてた妹の主家らしき場所は灰燼と化していました。多くの死者を出した被服廠にも近い場所でした。
「妹は死んだ」
と思った茂三さんは、泣きながら帰郷しました(ちなみに茂三さんが探し当てた場所は全然見当はずれの場所だったそうです)。
そして数日後には、当然ながら「涙の再会」という後日談がありました。
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大正12年9月1日の出来事。
「住み込み女中のおとよちゃん」こと亡き祖母からは震災の話や戦争の話はずいぶん聞いて、僕の中に良くも悪くも堆積している。
ただ日常は祖母と僕とは最初から最後まで折り合いが悪く、「ああ、女中頭が余計なことは言わなけりゃ」と恨んだことも一再ではないが、よく考えれば女中頭さんの絶叫が無ければ、今ここに僕はいない。
大正12年9月1日の女中頭さんに「ありがとうございます」と言いたい。
【防災の日の豆知識】
グーグルの画像検索で「女中頭」と検索するとゴヤの「アルバ侯爵夫人」が出てくる。
そして「仲居頭」で検索すると「温泉若おかみの殺人推理」の山村紅葉さんが出てくる。
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