防災の日である。
大正12年9月1日におきた「関東大震災」にちなんで制定されたのはご存知のとおり。
もう、80年たつので、経験者もかなり少なくなっていると思う。
ぼくの父方の祖母も関東大震災の経験者だったが僕が大学生のときに亡くなった。
しかし、大震災の話はそれこそ耳にタコができるほど聞かされてきたので、妙なリアリティを持って僕の心の奥底に堆積している。
当時、祖母はお屋敷奉公していた。住み込みの女中さんだ。
数日前から、雇い主一家のお供として他の使用人と一緒に逗子(神奈川県)の別荘に来ていた。ちょっと遅めの避暑だったのだろう。
その日の朝、逗子の海岸に心中者が打ち上げられたと言う。この世で添えない男女が来世を誓ってお互いの身体を結びつけて海に身を投じ、その遺骸が海岸に流れ着いたのだ。警察による処理作業を祖母、19歳の「おきよちゃん」は同僚と見物に行った。
「すごいね」などと言いながら別荘に帰った。庭で鶏の世話などしながら、常駐の爺やさんから「この辺の海岸には大きなものは打ち上がんねえはずなんだが」なんて話を聞いていたら「それ」がきたという。
地鳴りとともにドカンとゆれたらもう立っていられない、咄嗟に近くにあった井戸のふちに必死でしがみついた。
揺れはおさまらない。母屋の柱に掴まった女中頭がこちらに向かって大きな声で何か叫んでいるのはわかるのだけれど聞こえない。おきよちゃんは必死に井戸のふちにしがみついていた。
突然、声が聞こえた。
「おきよちゃ〜〜ん、そこに掴まっちゃ危ないよ--!!」
女中頭の声だった。ふと我に返ると、高さ三尺あった井戸のふちは、地震で地中に沈み半分の高さになっていた。
あわてて手を離して井戸から離れた。あやうく井戸に落ちるところだったのだ。
ああ、命拾いした。女中頭さんありがとう、と言っているところに、地震後の高波の余波が海岸からだいぶ離れた別荘にもやってきて、庭でパニクっていた鶏たちを根こそぎさらっていった。
逗子での被害は井戸のふちと鶏くらいだったが東京の屋敷の被害は甚大で、しばらくは主家ともども逗子で過ごすことになった。
水戸近郊の実家で東京にいるおきよちゃんのことを心配した人がいた。兄の茂三さんだった。
取るものも取りあえず水戸から汽車に乗って上京し、東京のお屋敷を探すが、街は壊滅している。必死で探したがわからない。一度来たっきりで東京の地理には明るくない。
ようやく妹の主家はここだろうと見当がつけた屋敷は灰燼と化していた。多くの死者を出した被服廠にも近い。
「妹は死んだ」
と思った茂三さんは、泣きながら帰郷したという。
そして数日後には、当然ながら「涙の再会」という後日談がある。
この話の締めくくりは、
「だから家族の情愛ってものはありがたいものなんだ」
と、
「このように兄貴はおっちょこちょいだったので、いつも苦労させられた」
の二通りあって、それが老「おきよちゃん」の気分次第であったのは言うまでもない。