地縁血縁兄弟仁義 「せきや資料室」と祖父母の写真

 さて、昨日に引き続き「せきや資料室」の話。どうも僕の話は冗長でいけない。
  マイテレビの僕のインタビューを見た長女・花子(仮名・小4)にも、
「この前の校歌の時もそうだったけど、おとうさんの話って長いよね」
と言われてしまった。いかんいかん、サクサク行こう。

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  「せきや資料室」にて、谷保天満宮でせきや初代・喜太郎翁と先代の宮司さんと並んだ祖父母の写真を見かけたところまで書いた。

  国立の町を作る工事関係者に荒物やお酒を供するためのお店が「せきや」の始まりだとも書いた。その工事関係者を入れるための銭湯を経営していたのが僕の祖父・寅蔵(仮名・明治21〜昭和40年)だ。昭和初年の開店だったらしい。先輩である喜太郎翁にはずいぶんお世話になったそうだ。言ってみれば弟分だったのだと思う。

  富山県から裸一貫で出てきた祖父は、若い頃は相当な遊び人でずいぶん無茶をしたようだが、まあいろいろあって国立に根を下ろしてどうにか一国一城の主となり、そして静かな老後を迎えていた。
  散歩が日課で、ラグビーが好きだったそうだ。なにルールなど一つもわかりはしないが、大男がガッツンガッツンぶつかり合うのが面白かったらしい。故郷の勇壮な祭りでも思い出していたのかもしれない。一橋大のラグビー場に練習を見に行っては選手たちに声をかけて大勢連れて帰り、ドロだらけの彼らに一番湯を振る舞い、「おいばあさん、若い衆にカツでもあげてやれ」などと言って祖母に悲鳴を上げさせていたそうだ。せっかくピカピカに磨き上げたタイルも泥田坊のラガー達が入ればあとはドロドロ、掃除のやり直しだ。そして、トンカツなど当時は高級品だ。

  そんな祖父であったが、つねに言っていたのは「俺が今日あるのは天神様のおかげだ」だった。だから人生の総決算として望んだのが「天神様への寄進」だ。ご存知のようにこういうものというのはしたいと思って簡単にできるものではない。タイミングや縁が重要だ。

  細かい経緯はわからないが、町の有力者である喜太郎翁に世話人になってもらい祖父の願いは実現した。時は昭和38年。

  自慢ではないが、といって始まる話が大抵自慢話なのは「夕焼け番長」の昔から変わらないがお許しいただきたい。
  谷保天満宮の参道の花崗岩の敷石、あれは祖父が寄進させていただいたものだ。鳥居や燈籠というのもすばらしいが、敷石と言うのがなんか祖父らしくて気に入っている。地味な存在ではあるが、多分、東日本最古の天神社である谷保天満宮に何百年と残るものになるだろう。

  僕がボジョレーヌーボーパーティーの途中、「せきや資料室」で見つけたのはその時の記念写真だ。
  祖父は黒い背広にソフトを目深にをかぶり少し前かがみでステッキを持って立ち、祖母は着物を着て賞状をこちらに向けて開き、小首をかしげておすまし。初代・喜太郎翁と天満宮の先代の宮司さんに挟まれて、それこそ「人生最良の日」と言った顔をしている。背景は谷保天満宮の白い花崗岩の参道。脇には高さ四尺ほどのささやかな記念の石碑。


  じいちゃん・・・・、ばあちゃん・・・・・


  僕はその2年後に死んだ祖父のことはほとんどおぼえていない。祖母とは20歳になるまで一緒に暮らしたがかなり強烈な人で、いい思い出はほとんどない。それでも突然の思わぬ再会につい目頭が熱くなってしまったのだ。


  ゆっくりと呼吸を整えてからパーティーの席に戻った。同席の宮司さん(当代)にその話をしたら、

「ええよく覚えてますよ。親父の頃ですね。私はまだ駆け出し神官でした」

 とにこやかに話してくれた。


  いやあ、小さな町のこととはいえ縁と言うのは面白い。喜太郎翁と弟分・寅蔵のそれぞれ孫であるマスオさんと僕がいわば兄弟分で、40年後のこの町でいろいろ悪さをしかけているのだから。



↓↓  この白い参道が祖父が寄進させていただいたもの。ちなみに右端の牛の石像は関敏先生の作品。 ↓↓