「FM国立」があった頃

「FM国立」があった頃<1>「起」 


1975年。わが町・国立には「FM国立」という放送局が存在しました。もちろん海賊放送です。実を言うと僕もそれに深く関わっていました。そのことを、毎日更新の日記「蕃茄庵日録」に書いたところ、たくさんの反響をいただきました。そこで、その内容を再構成してお届けします。

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日記「蕃茄庵日録」に70年代フォーク・ロックの思い出、というより中学三年の時の思い出を書いたところ、「山口瞳の会」のtoshiさんから感想と励ましをいただいた。

 
そしてtoshiさんへのレスとして僕が書いたのが次の一文だ。


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それにしても歌というものは凄いですよね。とたんにタイムスリップしてしまいます。僕の場合中三の頃聞いた歌が一番効きます。「いちご白書をもう一度」、「22歳の別れ」、「裏切りの街角」、「今はもう誰も」、 洋楽だったら「いとしのレイラ」「キラー・ クイーン」あたりかなぁ。
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自分で書いたこのラインナップを見ていて思い出した。というか気がついた。


「あっ、これどれもFM国立でかかっていた曲だ・・・・・」


 「FM国立」と聞いてニヤリとするのは、この日記の読者様では幼馴染のマー坊ぐらいであろう。

 

今は国立庶民史の狭間に埋もれてしまっているが、「FM国立」は1975年に約半年間だけ確かに存在した幻のFM放送局だ。一部の若者たちに熱狂的に愛されていた。


 中学3年生の春、「ちゃんと勉強するから」と決して守られるはずのない約束を担保にラジカセを買ってもらった。ソニーの「スタジオ1980」というミキシング機能を持っていた最新鋭機だった。フェイドイン、フェイドアウトも可能で、毎日、勉強せずにやたら凝ったマイ・テープを作っていた。

 そんなある日の午後、オマケにつけてもらったワイヤレス・マイクで遊んでいたら、突然スピーカーから聞きなれない若い男のボソボソというしゃべり声が聞こえてきた。

 
身辺のことやロックのことを静かに語り、ロックを流した。自分のことを「ドラゴンあきら」と名乗り、番組名は「トーク・ヤング」と言った。


 周波数は78メガヘルツ。NHKが82.5でFM東京が80.0。存在しないはずの周波数だ。 今は全国に猖獗するコミュニティFMどころか、J-waveすらなかった時代。


 「なんなんだ、この放送は!?」

 
 これが僕と「FM国立」との出会いだった。



 放送内容はトークとロックでCMは入らない。

 
かと言って某・国営放送のはずはない、NHKにこんな滑舌の悪いアナウンサーはいない。海賊局だとすぐに気がついた。


 「これは凄いものを見つけたぞ・・・」

 
 貪るように聴いた。


 数時間後、「じゃ、FM国立、今日はこの辺で・・・・」と言って放送は終わった。右に振り切っていた受信メーターがパタリと左に倒れた。

 
 「これは本当に凄いものを見つけたぞ・・・」

 
 FM国立と言うくらいだから、このパーソナリティの「ドラゴンあきら」も国立に住んでいる 人なのだろう。どんな人物なのだろうか? 俄然、興味が湧いて来た。


 
 それから毎日夕方から夜にかけてはラジオの前に釘付けだった。ロックなどほとんど聴いたことない僕がちょっとしたロック通になってしまったほどだ。


 ロックの話や身辺雑録のほか、平凡パンチやプレイボーイのエロ・コラムの朗読などもやたら面白かった。またイタズラ電話の録音テープなどもかなりアブない面白さだった。トークから推察するにどうやら高校生らしかった。


 その男、ドラゴンあきらはある夜ボソッっと言った。

「こうやって毎晩放送しているけど聞いているやつなんているのかなぁ」

 
 続いて言った。


「かと言ってお便り募集はできないんだ。電波監理局は郵政省の管轄だからね・・・」


 嗚呼、俺がここで毎日聞いてるのに!! かと言ってこの思いを伝える術はない。もどかしい思いばかりが先にたった。



 ところで、このFM国立の存在を僕が周りの人に言ったかというと、実はあまり言っていなかった。少数のごく仲のいい友達だけに教えていた。あまり大勢に知られると価値が下がるような気がしたのだ。さらに本音を言うと、ダサいやつには聴いて欲しくなかった(ホントは僕が一番ダサいのだが)。 



 そしてある日ドラゴンあきらはついに言った。

 
「もしこの放送聴いている人がいたら・・・・・、明日の夕方4時に、駅前東西書店の3階に集まってくれ」





FM国立 






 「FM国立」があった頃<2> 「承」 



「もしこの放送聴いている人がいたら・・・・・、明日の夕方4時に、駅前T書店の3階に集まってくれ」


 よっしゃぁあぁ!! この日を待っていた。翌日の放課後、僕はFM国立のことを教えていた数少ない同級生のひとりで、のちに文学座の俳優を経て地人会の演出家となる浅沼一彦(堅気じゃないから実名)と語らって、駅前東西書店に向かった。


 気が急いたのでずいぶん早く着いてしまった。3時半前くらいだったろうか。3階の窓から下を見下ろしながら、


 「今、入ってきたアイツかな」


 「いや、今のはやけに老けてたよ。それにまだ時間が早すぎるよ」


 などと話していたら後ろから、


 「やぁ!」


 と声をかけられた。


 振り向くと細身のジーンズにダッフルコートの長身、長髪のアンちゃんがニコニコと立っている。

 
「やぁ! おれ、アキラ。ラジオ聴いてくれてる人たちだろ? 中学生?」


 おおっ、これがナゾの男の正体か。僕も答えた。


 「うん。俺トマツ、一中の3年。こいつ同級生の浅沼」

 

 なんのことはない、先方も気が急いて早く来ていたのだ。



 ドラゴンあきらと僕と浅沼は4時過ぎまで次の客を待った。でも誰も来なかったので3人でマクドナルドに行った。


 よく「マクドナルドのことを東京では『マック』と略すけど関西では『マクド』と略す」と言う揶揄半分の話がある。


 それ、違いますからね。いや、半分は合ってるけど半分は違います。


 当時の国立で「マック」などという奴はいなかったな。みんな「マクド」と略していた。だってマクドナルドをCMのとおり「マック」って呼ぶなんて、コカコーラをコークと呼ぶみたいで恥ずかしいじゃないすか。


 
 閑話休題マクドナルドで何を話しあったかはよく覚えていない。わかったことはドラゴンあきらが我が家から程近いマンションに住んでいること、市内にあるT高校の2年生であることだった。


 気を良くしたあきらは、数日後には早朝の野球グラウンドでリスナー会(今で言う「オフ会」ですな)を開いた。今度は僕たちのほか高校生が5人くらい集まった。


 その頃から僕や浅沼の手紙が放送で読まれるようになった。


  僕は「ふらんす小咄」を数多く送った。つまりは艶笑コントだ。当時流行った映画「エアポート75」をもじった「エロポート75」とか、「伊豆の踊り子」をもじった「麗豆の踊り子(レズのおどりこ)」とかだ(いやな中学生だな)。あきらも面白がって大笑いで読んでくれた。


 放送は毎晩行われたので、ネタ作りも結構大変だった。


 天才肌・浅沼のロック論も豊富な知識に裏打ちされて、なかなか面白いものだった。これには自らロックバンドを組んで活動していたあきらも感心し、唸っていた。

 
 ウケるとさらにウケたくて黙っていられない。僕たちはクラス中にこの放送のことを喧伝した。退屈している奴らの噂は光の速さで伝播する。またたくうちに学校中に広がった。


 そのうちに「この手紙あきらに渡して」と学校で手紙を渡されることが増えてきた。その手紙は持ち帰ってあきらの家のポストに投函した。


 1人が手紙を読まれると、他の連中も読まれたくてせっせと手紙を書くようになった。休み時間が終わって教室に戻ると僕の机の上に手紙の山が出来るようになった。 なにしろちゃんとしたラジオ番組と違ってかなりの確率で読まれるのだ。


 女の子の手紙も増えてきた。憧れてた大原さんに「これ、あきらさんに渡して」と手紙を託されたときはちょっと複雑な気持ちだった。

  
 そんなわけで、いつしか僕は「マネージャー」と呼ばれるようになった。僕も気に入ってその名前をペンネームとして名乗るようになった。


 もちろん放送にも出演した。出演はしたものの、アドリブが苦手な僕の登場はリスナーに不評で、一回きりの登場だった。


 スタジオ、すなわちあきらの部屋に行ってみたら、送信機が広辞苑を半分に薄くしたくらいのコンパクトなものだったのに驚いた。ガワはクッキーの缶だった。電気マニアの同級生の手作りだったそうだ。
   

 高校生のリスナーも増えてきて、高校生だけのリスナー会も行われたようだ。会場は金文堂の地下にあった「しもん」や、旭通りにあったジャズ喫茶「喇叭」等。中学生の僕は行けなかった。



 中学生対象のリスナー会も開かれた。会場は「マクド」の2階。


 この時はずいぶんたくさん集まった。


 わが国立一中の生徒だけでも20人以上。半分以上が女の子だった。偶然を装って、遠くからこちらをチラチラと見ていた連中を加えると、30人近かったろうと思う。また、ラジオでのあきらの呼びかけに応じて来たものの、一中生の集団に圧倒されて名乗りでなかった他校生もいたと後から聞いた。


 あきらも今回は気合が入っていた。黄色いスウィングトップに当時流行っていたミラーグラスをかけて現れた。スリムな長身だからよく似合った。

  

 もう、スターである。特に女の子にはモテモテだった。


 それはそうだ。カッコイイし、同級生の男の子よりずっと大人っぽいし、名門・T高校の生徒だ。ロックバンドのギタリストでもある。



 「もう、ピーちゃん(自分のこと)恋しちゃったみたい!!」


 と身をよじっているコもいた。

  


 思えば、あきらも、そしてマネージャーことこの僕もこのころが絶頂だった。



 
FM国立 




 「FM国立」があった頃<3> 「転」 


 お便りはますます増えていった。それぞれ個性あるパフォーマンスでアピールし、ラジオ特有の「常連投稿者」も誕生し始めた。


 記憶にあるペンネームとしては・・・・白馬の星、小梅、小夏、ウルトラセブン、サカボー、ピンクリー(たしかこれは前章〈2〉で「恋しちゃったみたい!」と身をよじっていた「ピーちゃん」のペンネームだ)、ジミーペイジの弟子、ミッシェル、ミネンコ、ミヨちゃんなど など。今、中年を過ぎた当人たちが見たら赤面するであろう。


 放送中でかかる曲も広がりを見せ、ロック、フォークばかりでなく歌謡曲もかかるようになった。


 よくかかっていた曲をアトランダムに並べると、洋楽では、「いとしのレイラ」「スモーク・オン・ザ・ウォーター」「キラー・クィーン」「ボヘミアン・ラプソディ」等々


 邦楽では(この言い方、凄く抵抗があるのだけど)、「今はもう誰も」「裏切りの街角」「22歳の別れ」「いちご白書をもう一度」などなど  

 
 
 で、僕のふらんす小咄であるが、こちらはだんだん出番が少なくなってきた。



 理由は簡単、女の子のリスナーが増えてきたからだ。ドラゴンあきらも普通の健全な男子高校生だ。せっかくモテモテになったのに、女のコに嫌がられるエロ話などしたくない。そんなわけで僕の手紙が読まれることは少なくなってきた。


 いや、あきらのせいだけにしちゃいけないな。同級生の女の子たちも聞くようになって、僕も(特に艶笑ネタの)投稿を控えるようになり、事務方に徹するようになっていったのだ。


 そんなこんなで、だんだん放送内容もちょっと気取ったものになっていった。初期の頃の過激な爆発力はすっかり影を潜め、既存のラジオ番組とそう変わらないコンセプトのものになってきたのだ。


僕はひそかに、女の子からの恋愛相談のハガキに気取って答えるあきらのトークに若干の違和感を感じるようになっていた。


 そんな僕の危惧や違和感とはうらはらに、FM国立はますます繁盛し、人気や注目度も高まって行った。僕も胸に違和感を抱きつつも、今や国立の若者の人気と注目の的であるFM国立の周辺で過ごす日々は刺激的で、毎日が楽しくて仕方なかった。


 FM国立を中心に面白おかしい日々が続いていった。


 でも、作用があれば必ず反作用がある。人気が集まれば「やっかみ」も集まる。きらと僕の周りに不可解な出来事が続発するようになって来た。



 まず僕の周りに変わったことが起き始めた。


 「こちら電波監理局です」という電話がかかってきたのだ。母が出て僕にかわるとブチッと切れる。そんなことが何度かあった。母によると中学生くらいの声だったそうだ。


 僕のところにヘンな手紙が来たこともあった。「関東電波管理局」からの警告書だった。子ども文字で手書きの。だいたい、「管理局」じゃなくて「監理局」が正しい。相当 なガキの仕業だ。


 若かった(当然だ、14歳だ)僕は鼻先で笑っていたのだが、FM国立のブームを面白く思ってない人、反感を持っている人もいたのだろう。もちろん何を思われても文句は言えない。FM国立のやっていることは違法行為であり、犯罪なのだから。


 
 そんなある時、浅沼と二人で、あきらの家に手紙の束を持って行ったら、あきらのマンションの前に見慣れぬバンが停まっていた。中に人が乗っていて屋根には大きなアンテナが付いている。


「まさか? デンカン(関東電波監理局)?」


 僕たちは慌てて取って返し、公衆電話からあきらの家に電話をした。なかなか出なかったが10数回目のコールで、当時小学生だったあきらの弟が出てきて、


「おにいちゃんは出かけています」


と言った。そして結局、その日は放送がなかった。


 後で聞いたらやっぱり関東電波監理局のクルマだったそうだ。


 あきらも気がついていて、用心のため居留守をつかっていたそうだ。結局そのクルマは半日近くその場所でねばっていたそうだ。違法電波が発信されるのをジッと待っていたのだろう、クルマの中で弁当を食っていたらしい。


 僕の家にニセ電話をかけた人、ニセ警告書を送った人、と同一人物だとは思わないが、同じように考えた人からの通報が電波監理局にあったのだろう。


 でも彼らまたは彼を悪くは言えない。FM国立のやっていることは違法行為であり、犯罪なのだから。彼らまたは彼のやったことは「正論」だ。


 まぁそんなことが続いたこともあって、あきらももうそろそろ潮時かな?と思い始めた。


 親にも反対されたようだ。それはそうだろう、明らかな脱法行為を看過する親などありはしない。また、あきら自身、毎回の放送を中心とした生活が負担にもなってきていたと思う。


 
 残念ではあったが僕たちも反対できなかった。


 放送終了を発表すると、終了を惜しむ手紙や存続を望む手紙はかなりたくさんた。でもあきらの決心は固かった。



 初夏のある金曜日の夜が最終放送日と決まった。


 そしてリスナーみんなの投票で、ラスト・ナンバーは「いとしのレイラ」に決まった。



FM国立 




 「FM国立」があった頃 <4> 「結」 


 最終放送日が来た。学校からは山ほどの手紙を持って帰った。家に帰るとすぐにあきらの家に持って行った。


 でも学校で書ききれなかったのか、あとから我が家のポストに入れてくるやつも結構いて、放送開始時間まで何度かあきらの家との間を往復することとなった。


 最終回の放送はリクエスト曲を挟みながらも、ほとんどみんなからの手紙を読むだけに終始した。


 あっという間に放送終了の時間が近づいてきた。最後にあきらは今まで手紙をくれた人の名前を呼んだ。


「白馬の星、小梅、小夏、ウルトラセブン、サカボー、ピンクリー、ミッシェル、ジミーぺイジの弟子、ミネンコ、ミヨちゃん・・・・」


 当然、僕は別格である。

 
 放送の第一発見者であり、運営のサポーターだった。僕の名前は最後の最後で「いろいろ世話になったね、マネージャー」とメッセージつきで呼ばれるものと思っていたが、その他大勢の中に埋没しなんの抑揚もなく「マネージャー」と呼ばれ、少なからずショックを受けた。



 最後の曲はクラプトン(デレク&ザ・ドミノス)の「いとしのレイラ」。7分を超える大曲、激しい前半部3分と静かな後半部4分の対比が印象的な名曲だ。長くも短く感じた後半のピアノも終わり、曲は終わった。


一拍おいて、あきらは一言、


「じゃ、さようなら」


といい、そして電波は途絶えた。右に振り切っていた受信メーターがパタンと左に倒れた。スピーカーからは「ザーーー」という音が流れた。



 FM国立が終わった。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 これが、僕が知る「FM国立」のすべてだ。その後もあきらとは線路沿いにあった喫茶店「カルディ」でよく会い、友達ではあったが、もともとロックファンでない僕はだんだん足が遠のくようになり、高校に入る頃にはすっかり音信不通になった。今、どこで何をしているかまったく知らない。



 今はインターネットがあり、高校生だろうが中学生だろうが誰でも自分なりの情報発信が出来るようになった。苦労して危険を冒してFM電波を発信する必要などなくなった。


 
でも1975年のこの町には、1人の若者が自分だけのメディアを目指した作った「海賊放送・FM国立」なるものが確かに存在した、という、今は昔の物語である。

     

 《おわり》


FM国立