<昔日の一葉 1> 山口 瞳さん(1926~1995) 2020/12/13内容更新

<昔日の一葉 1 > 山口瞳氏(1926~1995) 2020/12/13内容更新

編集者時代に撮影させていただいた写真とエピソードを紹介させていただきます。第一回の今回は地元・国立市に住み国立を愛した山口瞳さん(1926~1995)をご紹介します。 
(2018年に第一回として書いたものに2020/12/13に大幅加筆しました)

1992年晩秋に撮影。


同じ町に住みながらずっと会えなかった方です。この日の撮影を境に親しくしていただきましたが、その期間は3年に満たないものでした。


最初にお名前を知ったのは中学生の時。コータくんのうちの近くにえらい小説家の先生が住んでいるというのを聞いて知りました。読者として読むようになったのは20代になってからでいつしか大ファンになっていました。

そして編集者になった僕は32歳の時に「新刊ニュース」の編集担当になりました。文芸、読み物の情報誌で歴代ワンオペ。一人で作ります。担当して一号目の仕事は前任者がたてた企画の実行です。その依頼済み企画書の中に山口瞳さん・・・・、なんか言いにくいなぁ。以下、「山口先生」で。その企画書に山口先生の名前がありました。エッセイをいただき写真を撮らせていただく「近況」というページ。重鎮や話題の作家の枠。カメラマンはいません。写真撮影もワンオペ、編集者が撮ります。もっともらしくなるから撮影者の名前を入れることになってました。


当時はEメールなんてものはなく・・・・あったかもしれないけど使っている作家はありませんでしたし、職場にもパソコンはありませんでした。ファクシミリを導入してない作家さんも多く基本は郵便。山口先生とも前任者が郵便でやりとりをして、電話で撮影日を決める手はずになってました。


いきなりの大仕事に僕は失態をやらかしました。

指定の日時に電話をかけたのですが、どなたも出ないのです。何度留守電に入れても返信はありません。夜になってやっとつながったら全然違う人でした。社にあった連絡先名簿が間違っていたのです。慌てて山口先生が連載されている雑誌の編集部に電話をして、幸い残っていた担当の方に正しい番号を教えてもらいました。僕が何度もかけて留守電を入れていたのはかつての電話番号でした。


夜も遅くなって、正しい番号にかけると治子夫人が出られて、


「主人は一日中、電話の前で待ってましたのよ」


と言われました。もちろん僕は平謝り。でも電話を替わって出られた山口先生は

「いや電話番号を変えたのはうちですから。悪いのはうちです」

と笑って許してくださいました。もちろん、事前にちゃんと確認しなかった僕のミスであることは言うまでもありません。

そして改めて撮影日時を決めて撮影したのが上の写真です。撮影の時のやり取りを山口先生は「週刊新潮」に連載されていたエッセイ「男性自身」に書いてくださいました。単行本にも収載されました。この件はのちのち山口ファンにずいぶん羨ましがられました。

その後は家が近いこともあってかわいがっていただきました。山口先生クラスの作家になるとふつう出版社ではベテランを付けます。その点、僕が勤めていたのは出版社じゃないしワンオペなので、僕は他社の担当編集者に比べて圧倒的に若かったと思います。大御所作家と駆けだし編集者で天と地ほども立場が違うのですが、山口先生は決して上からものを言うことなどなく、いつも言葉遣いも丁寧なものでした。素敵な大人でした。

僕の師匠店であるギャラリー・エソラ(2015年閉店)では、毎年の年末に国立ゆかりの作家がハガキ大の作品で競い合う「はがきゑ展」を開催していて、山口先生はその展覧会の大真打でした。そしてその展覧会の最終日の打ち上げが「国立山口組(国立で山口先生を慕う人たち)」の忘年会でもありました。


山口先生は毎回気さくに参加されました。大御所なんだから奥の椅子でどっしり座っていればいいのに、ちゃんと全員にグラスが行きわたっているか気にしたり、ご自宅から持ってこられた蟹を(全国からいろいろなものが届くがご家族三人では食べきれないと)各テーブル回って配って歩いたり不器用な人には剥いてあげたり、濡れているテーブルがあるとダスターで拭いたり。

そんな楽しい日々もそうは長くは続きませんでした。その期間は3年に満たないものでした。知遇を得てから2年半後の1995年の夏の終わり、先生は亡くなられました。


没後22年の2017年。「たまらび」という多摩エリアの雑誌で国立の特集が組まれたことがありました。



その号で僕は見開き2ページに渡って山口瞳先生を語っています。



取材オファーをいただいたとき、「いやいや僕のような弱輩者が」と怖気て辞退したのですが、山口先生が亡くなった1995年夏からこの雑誌が出た2017年春までの22年の間に、いつも上品にやさしく微笑んでいた治子夫人、芸術を語り合っていた喫茶ロージナ店主の伊藤接さん、その誠実さと豪快さを山口先生に愛され後に国立市長になる「市役所のガマさん」こと佐藤一夫さん、そして山口先生の書や水彩画の展覧会を開き前出「はがきゑ展」展を開き山口先生の応接間でもあった「ギャラリーエソラ=喫茶キャットフィッシュ」店主の関増雄さん、が亡くなっていました。

諸先輩の代理のつもりでつとめました。

さらにいうならこの雑誌が出てから3年半。先生夫妻が毎週末通った「繁寿司」店主の岸本高暉さん、旅の友・ドスト氏こと彫刻家の関頑亭さんが泉下の人となりました。(2020/12加筆)

若造だった僕も一昨日、還暦となりました。でも山口先生の謦咳に接した最年少の世代であることに変わりはありません。この国立に暮らし、国立を愛した山口瞳先生のことはこれからも語り継いでいきたいと思います。