富士見湯のこと

 先日、僕の生家が風呂屋をやっていたことを書いた。また創業者の祖父が富山から上京してきたことも書いた。



 

するとエッセイストの羽生さくるさんから問があった。その質問内容は、彼女の知り合いの風呂屋さんも富山出身で、東京の風呂屋はみんな富山出身だと聞いたそうである。それってホント? ということ。

  

 いい質問なので今日の日記はそのことについて書こう。


  
 銭湯経営者の出身地、その多くは富山を含む北陸三県+1(富山・石川・新潟・福井)だ。もちろん例外もある。

  

 風呂屋っていうのはとてもきつい商売だ。朝早く夜遅い。閉店後に掃除するから寝るのは深夜遅くだ。

 

 そして、裏の釜場はものすごく熱い。なにしろ大型のボイラーだ。

 
 
 そしてその燃料の廃材はリアカーを引っ張って集める。ものすごく重い。超重労働。祖父は廃材や府中刑務所の木工場から出た木端を満載したリアカーをひいて多摩蘭坂(国立以外の人に説明すると、この坂は国立と国分寺の市境にある急坂。忌野清志郎が多くの歌にしている)を降りる時、



「俺はいつかここで死ぬだろう」



と決死の思いで降りたという。

  

 お風呂屋のオヤジさんに北陸出身者が多い理由には、雪深い北陸の農村で培われた辛抱強さが無ければ勤まらないということもあったのだと思う。五月の鯉の吹流しみたいに、口ばっかの江戸っ子にはとても勤まらない仕事だった。

  

 それともう一つが地縁血縁。都会で風呂屋として独立した人が、故郷から地縁血縁で農家の次三男を呼び寄せて、住み込みの徒弟制で風呂屋の若い衆に仕込むわけだ。そしてその若い衆が成長して独立して開業するときは、また故郷から農家の次男三男を呼び寄せるというシステムだ。
 
  
 マニア向けにさらに詳しく言うと「部屋」っていうものの存在がある。言ってみれば風呂屋専門の私設ハローワークだ。どこの風呂屋に奉公するか決まってから上京する人もいれば、決まる前に上京する人もいる。そういう人がこの「部屋」に所属して、就職先が決まるのを待つわけだ。そこからどこかの風呂屋に就職し、また失職すると戻ってきて次の奉公先を探す。

  

 つまりそういう若い衆が大勢出入りするところ、それが部屋だ。

  

 血気盛んな若い衆が大勢集まりゃ、今も昔もやることは決まっている。博打、酒、喧嘩だ。そうだなぁ、時代劇の「中元部屋」や北海道の鰊漁の「ヤン衆宿」を想像していただければよかろうか。

  

 祖父も「部屋」の出身だ。11月22日の日記に「若い頃は相当な遊び人でずいぶん無茶をした」とあるのはその辺のことも含めて言っているのだ。なんでも「藤八拳(東八拳)」の名手だったらしい(武道ではない。狐拳みたいなゲームだ)。


  


 実は母の実家も銭湯だ(だから僕には100パーセント純粋の風呂屋DNAが息づいていると自称している)。そして両親の仲人さんは虎ノ門の近くにあった「部屋」の親分(経営者の意)だった。

  
 毎年、お正月には両親に連れられて親分宅に年始回りに行った。僕が会った頃の老親分は、お寿司をとってくれてジュースも飲ませてくれて、すごくやさしいおじいちゃんだったのだが、子供心にもわかる「凄み」、自分の周りの大人たちには無い「匂い」があって、臆病な僕は正直言って苦手だった。


  
 母から聞いた話。


 母と祖母が「部屋」に行った時のこと。玄関に入ると祖母が親指を突き出す。応対に出たおかみさんは人差し指で天を指し、つぎはその指で鼻をこする・・・。



 わけわかんないでしょ? 翻訳すると、



「親指を突き出す」 → 「親分は? 」



「人差し指で天を指し、鼻をこする」 → 「2階で花札





とまあ、こういう世界だったのである。


 

父から聞いた話。


 父が中学生の時、お使いで親分宅に行った時のこと。用事が済んで帰ろうとすると親分が呼び止めて、「坊やずいぶん勉強ができるんだってなあ。これあげるから鉛筆削るのに使いな。なぁにオジサンはもう要らないんだ」と言って紙包みを渡したという。家に帰って包みを開けてみると中から出てきたのは一尺はある白鞘の短刀だった。すぐさま祖母が返しに行ったという。


 とまあ、こういう世界だったのである。

 

 下の写真はうち「富士見湯」の焼印。これで下足札、桶(うちは最後まで木だった)、腰掛に屋号を焼きいれるわけだ。僕などは野球のバットにもこれで焼印を入れていた。富士見湯バット。それで幾多の三振記録を打ち立てたものだ。