真昼の決闘

今日はビデオ『真昼の決闘』を見ていた。また一段とお古いところで1952年の西部劇映画の名作だ。主演はゲーリー・クーパー。助演にグレース・ケリーカティ・フラード、トーマス・ミッチェル。監督はフレッド・ジンネマン

今まで何度となく見た映画であるが、それをなぜ今さら見るのか? 当日記の読者様ならうすうす感づいている方も多いと思う。けど書かない。

あまりに有名な映画ではあるが、未見の方のためにサラっと解説を。

  保安官の任期を終えて、と同時に若く美しい妻と結婚し、町の人々に祝福を受ける初老の男ケーンゲーリー・クーパー)。彼が新妻(グレース・ケリー)と旅立とうとした矢先、かつて刑務所に送りこんだ無法者が復讐に来るとの知らせを受ける。彼は町の人々に助力を乞うが、彼等の反応は手のひらを返したように冷たく、誰も彼を助けようとはしない。やがて対決の時が来て、彼は1人孤独に4人の無法者たちに立ち向かってゆく・・・・・。

というお話。アメリカ映画お得意のスーパー・ヒーローでなく、等身大の悩み苦しむ主人公だ。

  いろいろと有名なエピソードがある映画だ。

  ドラマの進行時間と映画の時間をシンクロさせる思い切った手法はあまりにも有名だ。つまり上映時間の90分と同じ、「ならず者のボスが復讐に来る」の電報から決闘までの90分間を描いたドラマなのだ。時々、時計を画面に出しながら、緊迫感を盛り上げている。

  もうひとつ有名な話でお古いところでは、この映画に出てくる凶暴な悪党と言うのが当時吹き荒れていたマッカーシズム赤狩りをシンボライズしたものだというもの。オノレ可愛さにケーンを冷淡に扱う町の人々の姿は、マッカーシズムに疑問を持ちつつも抗しきれなかった映画人たちの姿を象徴したものだと言う。

  ハワード・ホークスとジョン・ウェインがこの映画を批判したのも有名だ。つまり保安官が町の人に助力を頼むこと自体が腰抜けだと。まぁ、この辺は芸風の違いだから仕方ないな。僕は両方とも好きだけど。

  卑近なところでは、小泉首相ブッシュ大統領に始めてあったときにこの映画の話を持ち出して意気投合したのも有名な話だ(小泉首相自身がメルマガで披露している)。ブッシュ大統領あたりもきっとこの孤独なヒーロー・ケーンに自らの姿を投影させているんだろうな(そう考えると罪な映画とも言える)。


  僕はかなり久し振りにこの映画を見たんだけど、怖かったなぁ。もちろん「怖い」のは無法者ではなく町の人だ。ひとりひとりは善良な人なんだろうけど、非道に対して沈黙という名の追認を与えてしまい、一人闘おうとするケーンを文字通り「黙殺」しようとする・・・・。いつの世も一番怖いのは大衆なのだなあ。僕などはブッシュ大統領とは逆に(かどうかはわからないが)、この市民たちに自らの姿を投影させてしまうので、より怖さは増幅される。

  決闘の時間(無法者のボスが汽車で到着する予定である正午)が近づくに連れ、町から人影がなくなって、まるで「死の町」のようになっていくのも不気味だ。またネタバレになって申し訳ないのだけど(52年前の映画にネタバレもヘチマもないかな)、ケーンが敵を倒したとたん物陰からワラワラとでてくる人々の姿と、「活気」を取り戻していく町の姿は、もっと不気味だ。


  今更だけどゲーリー・クーパー演じるケーンがかっこいい。結婚式の正装のパリっとした白いシャツがだんだん汚れていくごとに男っぷりがあがっていく。勝ち方、戦い方がカッコ悪いところがカッコいい。逃げながら、追い詰められながら敵を倒していく老練さ。

  これが映画デビューで後にモナコ公国王妃となるグレース・ケリー、たしかに美しいのだが、存在感ではメキシコから来た莫連姐さんのカティ・フラードの一本勝ちだったかな。

  余談だが、4人組の悪党の中に若き日のリー・バン・クリーフがいるのはマカロニ・ファンにはたまらない。ジジイになってからカッコイイというのは実にうらやましいし、手本にすべきだな。