またまた昨日の続きである。
昨日、「初音家左橋さん。この人と僕の関わりはかなり古いぞ。」などと思わせぶりなことを書いた。でも古いのはホント。初めてお会いしたのは1970年代だ。
子どもの頃から寄席に通い、三度の飯の次くらいに落語が好きだった僕は、大学にはいると同時に落語研究会の門を叩いた。
入部してすぐの「修行中」のころ、突然、その春卒業したてのOBの訪問があった。細身で笑顔が爽やかな、いかにも身軽そうな好男子だった。
3年の先輩が、
「あ、仁好さん。こいつ今年の新入生で蕃茄・・・・」
と、紹介しかけたとき、
「あん、がんばってねぇー」
と言う言葉とともに股間をグリグリッとまさぐられてびっくりしてしまった。
「なんなんだ、この人は・・・」
この股間グリグリのOBの仁好さん(本名・鈴木さん)こそが若き日の初音家左橋さんだ。当時卒業後の浪人中だった。弟子入り先を探して運動中だったのだ。もちろんプロになろうってんだから、大学の落研レベルを飛びぬける面白さ、巧さだったそうだ。
その後まもなく第一志望の金原亭馬生師匠に弟子入りしてからも、よくキャンパスに遊びに来てくれた。
学園祭では深夜映画祭(今は違うだろうけど当時の学園祭はオールナイトの無法地帯だった)に連れて行ってもらった。
指笛でウグイスの鳴きまねをするのが得意で、映画のラブシーンに向かって「ピーーピーー」と指笛を鳴らし最後を「ホケキョ」とキメたときは、場内、映画そっちのけで大ウケだった。
まぁ、思い出を書けばきりはなく、ここには書けないシモがかったネタは数知れずあるのだが、一度僕は左橋さんにもうしわけないことをしてしまったことがある。
もう僕自身は落研をドロツプアウトしてからだったが、山手線の中で志ん駒さんのお供で移動中の左橋さん、当時前座で小駒さんを見かけたことがある。こういうときは知らん振りしなくちゃいけないのに話しかけてしまったのだ。「あ、はじめまして志ん駒師匠!!」なんて。志ん駒さんはにこやかに応対してくれたけど左橋さんはさぞ困ったろうと思う(それに気づいたのは自分自身がタテ社会の会社員になってからだった)。
真打披露も忘れられない。もう馬生師匠は亡くなっていて、志ん朝師匠が客演をされた。それはもう見事な高座だった。その志ん朝師匠も今や鬼籍に入られた。
その時の左橋さんの挨拶文も印象的だ。締めの一文が
「求められればパンツも脱ぎます」
だったのだ。いかにも左橋さん、いや小駒さんらしい、いや仁好さんらしい挨拶文だった。